尼子晴久とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

偉大な祖父・尼子経久の後を継ぐことに決まった時、

尼子晴久あまごはるひさはたったの4歳でした。

一体何があったのか、そして志半ばで死んでしまった尼子晴久とはどんな人物だったのでしょうか。

 

尼子晴久はどんな人?

プロフィール
尼子晴久

出典:Wikipedia

  • 出身地:出雲国(現在の島根県)
  • 生年月日:1514年3月8日
  • 死亡年月日:1561年1月9日 (享年48歳 *西暦・数え年による。旧暦・数え年の場合は47歳)
  • 出雲を中心に勢力を持っていた尼子氏の第5代当主。「8ヶカ国守護」と呼ばれるほどの最盛期を築き上げたが、志半ばで若くして亡くなった。

 

尼子晴久 年表

年表

西暦(年齢)

1514年(1歳)尼子政久の次男として誕生

1537年(24歳)祖父・経久の隠居に伴い、尼子氏の家督を継いで当主となる(父、兄は既に死没)

1538年(25歳)大内氏領内の石見銀山を攻略、因幡国平定、播磨国へと侵攻

1541年(28歳)祖父・尼子経久が死去し、尼子家勢力の国人領主が大量に大内氏へ寝返る

1542年(29歳)第一次月山富田城の戦い

1543年(30歳)奪われていた石見銀山を奪回

1551年(38歳)陶晴賢の反乱により大内義隆が討たれる

1552年(39歳)山陰山陽8ヶ国の守護及び幕府相伴衆となり、中国地方の支配権を握る

1555年(40歳)厳島の戦いで陶晴賢は毛利元就に破れて自刃

1557年(44歳)大内義長が自害となり大内領大半が毛利家の支配下となる

1557年(48歳)死没

 

尼子晴久の生涯

4歳で世継ぎに決まった尼子経久の孫・晴久

1514年に尼子政久の次男として誕生した晴久。

嫡男だった兄は夭折ようせつし、1518年には武勇に優れた父親の政久も磨石城の戦いで流れ矢に当たり、26歳で討死。

政久の血統を絶やすまいとした祖父・経久の意向もあって、当時4歳だった晴久(当時の幼名は三郎四郎)が跡取りに繰り上がりました。

彼が家督を継いで第5代当主となったのは、1537年の経久が隠居した時でした。

尼子晴久が当主となる以前の尼子氏

晴久24歳が家督を継承した時の尼子氏は、

・山陰・山陽の11ヶ国を制圧していた

・尼子家に臣従していた毛利家の家督相続介入に失敗。意に反して毛利元就が家督を継いで毛利家が大内家に接近したため、尼子家の備後、安芸への支配力が弱まった

・1530年に経久の3男・塩冶興久えんやおきひさの反乱があり、1534年鎮圧した

といった状況となっていました。

8ヶ国守護・尼子晴久

晴久が当主となった尼子氏は周辺との攻防を繰り返します。

・播磨の置塩城主・赤松晴政に大勝して勢力を拡大

・大内家との同盟が破綻。播磨・三木城の別所就治べっしょなりはる攻めや吉田郡山城の毛利元就攻めなどに失敗

・1541年には祖父尼子経久が84歳にて死没

・1542年に大内義隆が毛利元就と組み、尼子氏の居城・月山富田城を攻める(第一次月山富田城攻め)が、晴久は城を死守し、大内・毛利勢は敗走

・1551年に陶晴賢の反乱により大内義隆が討たれ、尼子氏が中国地方の一大勢力として幕府から認められる。

尼子晴久は山陰山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられ、中国地方を支配

途中、祖父尼子経久の死を経験しながらも、尼子氏当主・尼子晴久は中国地方8ヶ国を支配する者として室町幕府将軍・足利義輝から正式に認められたのです。

尼子氏の中央集権化

1554年には、尼子氏から離反しようとしていた尼子国久と誠久さねひさを粛清し、出雲を晴久の直轄地とします。

翌年、大内氏の実権を握っていた陶晴賢すえはるかたが毛利元就によって滅ぼされると、それを好機に晴久は石見銀山の奪回に成功。

この間、毛利氏は備後・備中・因幡などの尼子方の国人衆の支配基盤を取り上げています。

晴久は、銀山を得ましたが、その分山陽方面の領土を喪失したのです。

しかし晴久は同時に、備中上房郡(現・高梁市)で毛利方の国人を敗走させるなど、尼子氏内の中央集権化を進めていました。

こうして尼子氏が問題を抱えながらも、成果が上がりつつあった時、想定外のことが起きました。

尼子晴久の急死です。

毒殺の噂もありますが、どうやら死因は脳溢血だと考えられています。

晴久の死後

毛利氏とのせめぎ合いの最中だった晴久の死は伏せられ、月山富田城の中で密葬されたそうです。

晴久の嫡男・義久が後を継ぎますが、その後、毛利元就は毛利隆元、吉川義元、小早川隆景の3兄弟の軍を侵攻させます。

石見銀山は毛利家のものとなり、尼子家の国人衆の多くが毛利へと移ってしまいました。

1566年には、尼子義久は月山富田城を明け渡し、大名としての尼子氏が滅亡する運命が待ち受けていたのでした。

 

晴久にまつわる話し

毛利元就の言葉

尼子氏とは長く渡り合った毛利元就は、晴久の死をチャンスとして息子たちを尼子氏攻めに派遣します。

ただ単純にその死を喜んだわけではなかったそうです。

「一度でいいから旗本同士で戦いたかった」

と言って残念がったと伝わっています。

晴久が残した神社

美作国一宮(岡山県津市一宮)中山神社本殿は、晴久が残した建築物として名高いものです。

1533年の晴久による美作攻めの時、境内に陣を敷いていた敵方を攻略するために火を放ったことが原因で社殿が焼失していました。

それを1559年に晴久自身が再建したのです。

現在本殿は国指定の重要文化財となっており、「中山鳥居」や「中山造」など独特な神社の造りで、全国的にも有名です。

その後の美作国内における神社建築の模範となりました。

 

きょうのまとめ

今回は8ヶ国守護となった尼子晴久の生涯をご紹介しました。

尼子晴久とは

① 大内家、毛利家を従えた山陰山陽8ヶ国守護であり、中国地方一の大大名

② 偉大な祖父の後を継ぎ、領地の中央集権化を実現した尼子家の当主

③ 志半ばにして亡くなった悲運の武将

でした。

彼は自分の子の代となって、まさか尼子氏が滅亡するなどと考えたことがあったでしょうか。

大大名になったとはいえ、その次の瞬間にどうなるかの保証もないのが戦国大名の実情でした。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku