戦国武将として人気の上杉謙信と共に人気の高い
武田信玄。
武田信玄には、城に関する有名な名言がありますが、
信玄はどのような城を本拠とし、国を守ったのでしょうか。
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人は城
この言葉、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
これは武田信玄の思想を凝縮した言葉とされ、現在でもビジネスシーンなどさまざまな分野で活かされている考えでもあります。
その意味するところは、
・高い石垣と深い堀で、城を強固にしても、人心が離れてしまっては国を守ることはできない
・深い情をもって接することによって、人は強固な城以上に国を守ってくれる
・仇を感じるように接すれば、いざというときに人は国を守るどころか裏切って滅ぼしてしまう
というものです。
信玄と城についてみていきましょう。
武田信玄は城を築いたのか?
攻めるも守るも、結局は人ありきであり、
何よりもまず信頼で結束した「人」を重要視してた武田信玄は、
実際に領国の甲斐に強固な城を築くことはありませんでした。
これは甲斐の領土が、天然の要害ともいえる地形を有していたことで、
特段強固な城を築く必要性がなかったともいえます。
ただ全くの無防備でいたわけではなく、
信玄の父、信虎によって築かれた「躑躅ヶ崎館」を拠点に、守りを固めていました。
躑躅ヶ崎館
躑躅ヶ崎館は山梨県甲府市古府中町にあり、
現在は武田信玄を御祭神として祀った「武田神社」が建てれています。
武田信虎によって築かれ、信玄、勝頼と、3代にわたってここを拠点とするのですが、何故にここだったのでしょうか……
地形から見てみると東西を川に囲まれ、
背後に標高700mを超える要害山があることから、
攻めにくく守りやすいという、国防的な理想を実現していました。
さらに信玄の父信虎は、
この背後の要害山に「要害山城」を築き、いざというときの詰めの城として防備を固めるのです。
新府城と武田の滅亡
武田信玄の死後、
家督を継いだ勝頼は長篠の戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫します。
そして織田・徳川連合軍の甲州征伐が本格化するのに備え、
勝頼は新府城を築き、武田3代60年あまり過ごした躑躅ヶ崎館を去ることになるのです。
さらに織田軍が甲斐国へ進軍してくると、
勝頼は小山田信茂の岩殿城に移ることを決意し新府城に火をかけます。
その途上、笹子峠で信茂の謀反にあった勝頼は進退窮まり、
天目山へ追い詰められて、武田一族は滅亡することになるのです。
きょうのまとめ
武田信玄と、城の関係をまとめてみましょう。
① いわゆる「城」というものは築かず「館」と呼ばれるものを拠点としていた
② 「人」の結束による力を重視した
③ 国の守りは天然の地形を利用していた
④ 後継の勝頼は織田軍の脅威に直面し、新たに築城した新府城に移った
このように見てみると、武田信玄は、「人の力」、「自然の地形」、「建築物」を、
バランスよく理想的な形で組み合わせていたといえるのではないでしょうか。
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