史実よりも伝承や都市伝説のほうが有名になった感もある
平将門。
彼は怨霊になるほど恐ろしい人物だったのでしょうか?
それとも無謀にもそして愚かにも「朝廷に弓を引いた者」「天皇になりたかった男」と評価するべきでしょうか?
平将門とはどんな人物だったのか追ってみましょう。
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平将門はどんな人?
- 出身地:下総国(現在の千葉県)と考えられるが詳細は不明
- 生年月日:未詳(903年説と884年説がある)
- 死亡年月日:940年3月25日(享年38歳 *生年903年説の場合)
- 関東の人々の苦しみを代弁し、中央政府に対抗して東国の王としての独立を目指したが朝敵とみなされ、討伐される。
平将門 年表
西暦(年齢)*生年903年説を採る
903年(1歳)陸奥鎮守府将軍下総守・良将の子として誕生
918年(16歳)京に上り、左大臣藤原忠平に仕える
930年(28歳)帰郷
931年(29歳)「女論*」により良兼と将門の仲が悪化
935年(33歳)常陸で叔父の平国香、源護、平良正との抗争に将門が勝利
938年(36歳)将門軍が平貞盛軍を破る。貞盛は逃亡
939年(37歳)
・武蔵国の郡司武蔵武芝と赴任してきた受領・興世王と源経基の間の紛争を将門が仲裁受領と対立していた藤原玄明を助けて常陸国府を討つ
・関東一円の8箇所の国府を降伏させて新皇と自称する
940年(38歳)
・平貞盛・藤原秀郷連合軍に敗れて戦死
*「女論」が何を意味するかの詳細は不明。将門の妻もしくは伯父たちの妻にまつわる紛争だと言われる。
平将門とライバル平貞盛
桓武天皇の血を引く平将門でしたが、16歳の時から京の朝廷で藤原北家の長である左大臣・藤原忠平に仕えました。
しかし、真面目に仕えてもなかなか出世できず、検非違使になりたいという願いは叶いません。
それに対する失望や怒りは、将門の朝廷に対する不信にも繋がりました。
青年・将門は、彼の父親である良持が亡くなった時に、国元に戻るのでした。
将門の生き方
国に帰った将門に待ち受けていたのは、親族内での抗争でした。
将門の父親が遺した土地を伯父たちに奪われていたのです。
将門は、自分や伯父たちの妻を巡る諍いや、その舅たちの領地争いにも巻き込まれる形で、伯父たち
・平良兼
・平良正
に立ち向かいます。
935年の平国香とその舅である源護に対抗する戦いでは将門が勝利。
国香は戦で焼死しました。
936年の平良兼、平良正による国香のための復讐戦も全て伯父たち側から将門に仕掛けてきた戦いです。
しかし、約束と違うこと、理にかなわないことが許せない将門は、それらを見事撃退。
さらに将門は、
938年の武蔵国の受領と郡司の諍いの仲裁をし、常陸国の揉め事を解決しようとしました。
しかし常陸国での揉め事は戦へと発展し、将門が国府を襲ったために朝廷に対する反逆だとされ、朝敵となったのです。
そもそもこの武蔵と常陸での紛争への介入は、親分肌だった将門が、
「中央から派遣された受領たちに苦しめられた関東の人々に助けを求められて立ち上がった」
ものです。
将門は関東では地元の人々に慕われ、「弱者の代弁ができる」と頼りにされた唯一の人物であり、その期待に応えることをいとわない武家だったのです。
平貞盛の運
一方、なにかあるごとに平将門の前に立ちはだかって邪魔をする、ライバルのような存在が平貞盛でした。
貞盛は、最初に将門が戦った伯父の一人・平国香の息子であり、将門の従兄弟です。
中央政府で官職についていた貞盛は、父親が戦で死んでしまった直後は、将門に戦を仕掛けず和睦を申し出ます。
その頃の貞盛は、京での地位を守る為に関東で父親の仇を討つのは得策ではないと計算したのです。
しかしやがて貞盛は、将門との和睦の約束を破って、将門を攻めます。
貞盛は立ち回りが上手い人物でした。
936年の父親・国香の復讐戦で将門に負けたときは素早く逃げ出し、朝廷に将門の悪行を訴えました。
貞盛は、朝廷を味方につける大切さをよく知っていたのです。
将門が仲裁した武蔵国の紛争のときの受領は、貞盛と通じていた者でした。
また将門が国府の攻撃をし、朝敵と呼ばれる原因となった常陸国での戦いでは、敵方に貞盛がいたのです。
最終的に将門を討ったのは、朝廷が派遣した将門討伐軍ではなく、平貞盛と藤原秀郷の連合軍です。
いつも危機から逃げおおせることに成功し、繰り返し将門に対抗した貞盛。
最後は偶然南風にのった矢が将門を討ったわけです。
貞盛は運の強い男でした。
将門の死によってもたらされたもの
死後、将門の首は平安京で歴史上確認される最も古いさらし首、つまり「獄門」になりました。
一方、連合軍として将門を討った側の平貞盛と藤原秀郷の栄光のきっかけは、この平将門の乱でした。
何を隠そう平貞盛は平清盛の7代前の祖先、そして藤原秀郷は奥州藤原氏の祖です。
彼らの一族はこれを契機に繁栄の道を進んでいったのです。
では、死んだ将門の生涯は、無意味だったのでしょうか?
いえいえ、彼の行動は東国の武家政権の先駆けとなるものでした。
公家から武家へと実権が移行していくその初期のうねりだったのです。
そういった意味で、彼の反乱は歴史上のキーポイントのつです。
そして、彼の存在自体が、のちの戦国武将や徳川家康に崇敬されるようになったのです。
きょうのまとめ
ここでは、平将門の全般的な足跡とライバル平貞盛についてご紹介しました。
平将門とは?
① 強く、頼りがいがあり、まっすぐな性格の親分肌の男
② 関東地方の権威を上げるための戦いで散った悲劇の武将
③ 平将門は東国の武士政権の先駆けとなった人物
でした。
この時代に将門が夢見た東国での政権は、鎌倉時代に形となっていったのです。
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分かりやすかった。どこらへんが運が良いと言えるのか知りたい
コメントありがとうございます!
平貞盛が運がよかったと言えるのは以下のような点でしょうか。
・繰り返し将門に対抗し、危機があったにもかかわらず逃げ延びたことができた
・偶然南風にのった矢が将門を討った
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