関東という場所に意味があった平将門の乱

 

平将門の乱とは、939年に平将門が関東で起こし、朝廷に反旗を翻して自らを「新皇」と名乗った反乱です。

場所は異なりますが、同時期に瀬戸内海で起きた藤原純友の乱とともに「承平・天慶の乱」と言われています。

他の天皇を擁立するのではなく、「自分が天皇になる」と将門自身が宣言したこと、東国が朝廷に対等に渡り合おうとしたことが、とてもセンセーショナルでした。

 

すべては下総・常陸の平氏の抗争から始まった

平将門の乱は、将門がただ天皇になりたくて起こした乱ではありません。

これには理由や伏線がありました。

 

きっかけは親族の争い

桓武天皇の血統を汲む平氏の子孫であり、関東では名の通った豪族の一員・平高望(たいらのたかもち)は将門の祖父です。

彼が武功で手にした所領は、将門の父・良持(よしもち)を含めた5人の息子たちのものになっていました。

そして将門が自分の父親が亡くなったときに京から国元に戻ると、父の兄弟である伯父たちとの間に問題が起きたのです。

その問題とは、

・将門の父・良持の遺領が伯父たち平国香(たいらのくにか)、良兼(よしかね)、良正(よしまさ)に取られたこと

・将門が妻にした良兼の娘、もしくは常陸国の大領主源護*(みなもとのまもる)の3人の娘を巡る争い(*彼の3人の娘はそれぞれ上記3人の伯父の妻)

・将門のもう一人の妻の舅・平真樹と3人の伯父たちの舅・源護の領地争いで将門自身が伯父たちと対立したこと

などでした

そして935年、将門 vs 国香・良兼・良正の戦いが勃発。

戦で国香は焼死、良兼は病死しました。

国香の息子であり将門の従兄弟・平貞盛(たいらのさだもり)も将門との争いを避けるため和睦を申し込み、将門の完全勝利となりました。

身内争いに勝った将門は、伯父たちが持っていた関東の所領全てを支配したのです。

将門による武蔵国での仲裁と朝廷の目

腕が立ち、面倒見も良かった将門は関東で勢力を持つと、地元の人々に頼られました。

そして、武蔵国に新しく赴任する受領と彼への接待やワイロを拒否した郡司との諍いを仲裁。

ところが、とんだ勘違いのために将門は「関係者を殺害しようと企んだ」朝廷に訴えられます。

さらに、和睦していたはずの平貞盛が裏切って戦を仕掛けてきました。

怒った将門が従兄弟の貞盛を討とうとすると、逃げた貞盛朝廷に将門を訴えたのです。

訴えられてばかりの将門は朝廷から目を付けられてしまいました。

常陸国のトラブルにライバル平貞盛出現

さらに常陸国で土地所有者と受領・藤原惟幾(ふじわらのこれちか)の間で納税についての紛争が起きます。

土地の所有者に助けを求められた将門は、紛争相手の惟幾が以前の戦いで平貞盛の味方をしていた者と知ると、軍を引き連れて向かいます。

すると、そこにライバル・平貞盛が待っていたのです。

 

平将門の乱とその終結

939年の将門 vs 惟幾・貞盛の戦いが平将門の乱に繋がります。

怒濤の戦いの後

将門の怒りは炸裂。

攻めに攻めて常陸国を攻撃して支配した上、惟幾に謝罪させました。

常陸国は国府を攻撃されて壊滅状態。

しかし、政府の機関である国府を攻撃するということは、中央への反逆を意味します。

それは将門の本意ではなかったとも言われますが、やりすぎた将門は、もう後へは引けません。

そこで将門は、ならばむしろ関東全体を征服して力を持つことで、朝廷の攻撃を避けて対等になろうと考えたのです。

すでに将門は、税金で民を苦しめる受領を追い払った関東のヒーローでした。

関東地方の支配はさほど難しくはありません。

関東8カ国の国府を攻撃支配して自ら「新皇」を名乗りました。

しかし、現役の天皇を古い天皇として扱った将門の宣言は、明らかに今上天皇への謀反だったのです。

将門追討令

同時期に西国で藤原純友の乱が起きていたこともあり、朝廷は将門の行為と新皇宣言に驚愕します。

940年、朝廷は将門追討令を発令。

参議の藤原忠文(ふじわらのただふみ)を征東大将軍に任命して将門の本拠である下総の猿島(さしま)郡石井(いわい)へ派遣しました。

その時、将門は平貞盛と藤原惟幾の子為憲(ためのり)の行方がわからず、春の収穫時期だったこともあり、兵を帰国させていました。

しかし、その間貞盛は下野国押領使(おうりょうし/警察・軍事的官人)藤原秀郷と組んで兵4000を集め、手薄な将門を攻めてきたのです。

慌てた将門は、残っていた1000人足らずの兵で出撃。

自ら陣頭指揮に立って戦います。

当初は善戦していた将門軍でしたが、やがて劣勢となり、結局退却となってしまいました。

将門の最期

将門の最終決戦はたった400騎で貞盛・秀郷連合軍に対しましたが、春一番を背にした矢戦で優位に戦い、2900いた相手方の兵たちは次々と逃亡。

ところが、残る300騎となった時に風向きが変わります。

そして先頭で奮戦していた将門の額に、南風に乗って飛んできた矢が命中してしまったのです。

将門はあっけなく討ち取られてしまいました。

茨城県坂東市岩井には将門を祀る國王神社がありますが、そこが平将門の終焉の地だと言われています。

(國王神社)

 

きょうのまとめ

今回は、平将門の乱が起きた場所やその経緯についてご紹介いたしました。

いかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると

① 平将門の乱は将門の一族抗争と関東地方の受領に対する反発を契機とする関東における反乱だった

② 将門の新皇宣言と国府攻撃が朝廷に反逆したとみなされる原因だった

③ 戦上手だった将門だったが、流れ矢に当たって非業の死を遂げた

関東地方の雄として頼りにされたため、あらゆる紛争に巻き込まれてしまった平将門。

事態の思うよりも早い展開に、彼自身が戸惑いながらも生き残ろうとした結果が、平将門の乱だったのではないでしょうか。

 

平将門の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku