岩崎弥太郎の家族や子孫は?岩崎家の家系図から見えてくるエピソード

 

貧しい家に生まれながらも、その才覚と努力で三菱を創設した

岩崎弥太郎

並々ならぬガッツを持っていた弥太郎の家族や子孫には、

一体どのような人物がいるのでしょうか。

そこで今回は、岩崎家の家系図を簡単に見ていきたいと思います。

 

岩崎弥太郎の家系図

早速、岩崎弥太郎の家系図をみていきましょう。

家系図

 

三菱を発展させた弟・岩崎弥之助

岩崎弥太郎には、弥之助という弟がいました。

アメリカへの留学経験も持つ弥之助は、
兄の事業を助けるために働きます。

弥太郎の死後は二代目の社長を務め、事業の多角化を図りました。

例えば日本郵船を誕生させたり、
銀行業を始めたのも弥之助の功績です。

三菱を作ったのが弥太郎なら、
三菱を大きくしたのが弥之助とも言えるでしょう。

甥の久弥(弥太郎の子)に社長の座を譲ったあとは、
日本銀行の総裁を務めたこともありました。

 

娘婿には二人の総理大臣がいる

岩崎弥太郎には正妻の喜勢(きせ)の他にも、
複数人のお妾さんがいたそうです。

そのため岩崎弥太郎は子だくさんでした。

そのうち長女・春路(はるじ)は三菱の社員であった加藤高明に、
四女・雅子は外交官の幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)に嫁いでいます。

詳しい方ならもうお分かりのはず。

加藤高明【第24代】と幣原喜重郎【第44代】は、のちに日本の内閣総理大臣を務めた人物です。

義理の息子が二人も国のトップになるなんて、すごいですね!

 

GHQに最後まで従わなかった甥・岩崎小弥太

三菱の4代目社長を務めたのが、
甥の岩崎小弥太です。

先ほどご紹介した弟・弥之助の長男に当たります。

 

岩崎小弥太は東京帝国大学を中退し、
イギリスのケンブリッジ大学を卒業した人物。

社長に就任すると、各事業部を株式会社として独立させ、
本社を持株会社としました。

さらに三菱重工業(※1)を設立したり、
新規事業にも進出したりといった功績を残します。

※1 「重工業」という名称は英語のHeavy Industriesに当てて、小弥太が発案した言葉です。

他にも私立成蹊実務学校(現在の成蹊学園)の設立に協力し、
教育界にもその名を残しています。

三菱の発展に尽力してきた小弥太を、「財閥解体(※2)」という事態が襲います。

※2 財閥解体とは第二次世界大戦後、GHQ(連合国総司令部)が出した指令のこと。GHQは戦争が起こった一因には財閥の存在があると考えたからです。

他の財閥が次々と解散を受け入れる中、
小弥太はGHQの命を拒んだそうです。

当時の大蔵大臣が自ら出向いて説得するも、意見を変えなかったとか。

最終的には日本政府からの解散命令を受け、
やむなくそれを受け入れることになりました。

 

二千人の戦争孤児の母となった孫娘・沢田美喜

最後にご紹介するのは弥太郎の長男・久弥の子である沢田美喜です。

岩崎弥太郎からすると、
孫に当たるということですね。

結婚を機にクリスチャンになったという沢田美喜は、
エリザベス・サンダース・ホームという児童養護施設をつくった人物。

エリザベス・サンダース・ホームとは戦争混血児を養育するための施設です。

第二次世界大戦後は、
駐留軍の兵士と日本人女性との間に生まれた子も多くいました。

しかし、何らかの理由で親と一緒に生活することができなかった子供たちを救うため、

沢田美喜は私財を投じてエリザベス・サンダース・ホームを創立しました。

約2,000人もの孤児たちが、ここを巣立っていったそうです。

 

きょうのまとめ

今回は岩崎弥太郎の家族や子孫について、簡単にご紹介しました。

① 弟・岩崎弥之助は事業の多角化を図り、三菱グループの基礎を築いた

② 二人の娘婿(加藤高明・幣原喜重郎)が日本の総理大臣を務めた

③ 甥の岩崎小弥太はGHQの財閥解体に最後まで反対した

④ 孫の沢田美喜は私財を投じて、戦争混血児の養育施設をつくった

こちらのサイトでは他にも岩崎弥太郎にまつわる記事を、わかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひご覧になってくださいね!

 

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