白河天皇は、1073年に即位した72代天皇です。
そして1086年に天皇を退位して上皇となり、その後さらに出家して法皇となった人物です。
その白河天皇が上皇になってから始めた政治運営の方法を院政といいます。
白河天皇は歴代天皇の中で最初に院政を行った天皇なのです。
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白河天皇が院政を始めるまでの経緯
白河上皇が院政を行うことが可能になったのには、父親である後三条天皇の努力があったからです。
後三条天皇による摂関家への対抗手段
平安中期を代表する権力者・藤原道長の息子の藤原頼通は、
後朱雀天皇と後冷泉天皇の関白を50年務めました。
藤原氏が絶大なる権力を保持した方法とは、自分の娘を天皇家に嫁がせて未来の天皇を生ませ、その後見をするという外戚関係を利用した方法でした。
しかし、頼通が天皇家に嫁がせた娘には男子が生まれなかったのです。
結果、頼通からの影響を受けない後三条天皇が即位し、藤原氏に対抗していきます。
後三条天皇の対抗手段とは、
・藤原氏の対抗勢力である人物を登用
・荘園整理令を発布し、広大な荘園やその特権で肥大した摂関家に経済的打撃を与えること
でした。
これにより摂関家は徐々に力を失っていきました。
後三条天皇が望んだ「院政」を実現した白河天皇
実は、摂関家の力を弱め、親政を行っていた後三条天皇こそ院政を目指した張本人でした。
後三条天皇は1072年に譲位し、18歳の白河天皇を即位させて院政を行いたいところでしたが、翌年に崩御し、それはかないませんでした。
白河天皇は後三条天皇の遺言に従い、異母弟を皇太子にしていましたが、その皇太子が病で早世。
そこで白河天皇は当時まだ8歳だった自分の長男・善仁親王を堀河天皇として即位させます。
白河天皇本人は上皇となり、堀河天皇の代わりに政務を執り行いました。
これが「院政」の始まりです。
院政とそのメリット
院政は、藤原氏による摂政・関白による政治(摂関政治)が衰退し始めた平安後期から源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの約100年間ほど実行されました。
なぜ院政と呼ばれる?
「院政」とは、天皇がその位を息子や弟などの後継者に譲って上皇に就任し、天皇の代わりに政治の実権を握った政治形態のことです。
上皇の住んでいる住居が「院」と言われます。
そこで執り行われた国政を「院政」、
実務を行う天皇家の家督(ここでは白河上皇)のことを「治天の君」と呼びます。
「院政」を行うメリット
しかし、なぜ白河天皇は、そのまま天皇として政治を行わず、譲位してから政治をするというまどろっこしい方法を採ったのでしょう?
実は、院政には以下のようなメリットがあったのです。
・天皇の地位から離れ、外戚の摂関家から自由になれること
・天皇の目上の立場より政治を行えること
・私有地を持てない天皇と違い、上皇という自由な立場から寺を建立し、寺に荘園を持たせて蓄財ができること
・国の公領を管理した国司の人事権を握り、その利権を手に入れること
このように院政は、白河上皇に強大な力をもたらしたのでした。
白河院政のその後
当初「治天の君」の白河上皇は、堀河天皇に代わって政治を執り行っていました。
やがて成人した堀河天皇は天皇による「親政」つまり白河上皇からの自立を望みます。
白河上皇は堀河天皇の後見としての役割を終了し、出家して白河法皇となって、仏教へとのめり込んでいきました。
一方、堀河天皇は関白であった藤原師通と協力して政治を執り行い、一時は摂関政治が復活したような形になりました。
しかし師通が亡くなり、その子は関白として堀河天皇をサポートするには若すぎたため、代わりに白河法皇が再び政治に介入したのです。
白河法皇の院政はますます本格化し、
・人事権の掌握
・院を警護する北面の武士の設置
・身内の皇位継承権の剥奪をして天皇家内の力をコントロール
などを実行。
白河法皇の院政は、1129年に77歳で亡くなるまで堀河天皇、鳥羽天皇、そして崇徳天皇の代まで43年間続きました。
きょうのまとめ
今回は白河天皇が上皇となっておこなった政治、「院政」についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
① 白河天皇の院政の下地は、先代天皇の後三条天皇が作った
② 白河院政の目的は、上皇として自由な立場で大きな利権を手に入れるため
③ 白河治政は天皇即位から上皇、法皇となり崩御するまで約43年間続いた
白河天皇は、摂関家に操られていた天皇の時代にはない強いキャラクターの人物と言えそうです。
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