白河天皇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

院政という新しい政治体制を作り、

盤石な院政の基盤を作った白河天皇とはどんな人物だったのでしょうか。

 

白河天皇はどんな人?

プロフィール
白河天皇

出典:Wikipedia

  • 出身地: 京(現在の京都市)
  • 生年月日: 1053年7月7日
  • 死亡年月日: 1129年7月24日 (享年77歳)
  • 日本の歴史上はじめて院政を開始し、100年続いた院政時代の基礎を築いた法皇

 

白河天皇 年表

年表

西暦(年齢)

1053年(1歳)貞仁(さだひと)親王として誕生

1072年(20歳)貞仁親王が天皇即位し白河天皇となる

1086年(34歳)天皇を退き堀河天皇に譲位。白河上皇となる

1096年(44歳)出家して白河法皇となる

1107年(55歳)堀河天皇崩御。宗仁(むねひと)親王が鳥羽天皇となる

1123年(71歳)鳥羽天皇が譲位し、顕仁(あきひと)親王が崇徳天皇となる

1129年(77歳)白河法皇崩御

 

白河天皇が院政を強固にするために行ったこと

白河天皇は、上皇、法皇を務めながら、幼い天皇の代わりに政務を執るという名目で全ての権限を自分に集中させるポジションを作り上げました。

人事権を掌握し、摂関家の権威を低下させた白河法皇。

自分の血を継いだ堀河・鳥羽・崇徳天皇の地位を守るために、彼らの異母兄弟を出家させて、皇位継承権を剥奪するほど天皇を自分のコントロール下に据えるよう徹底したのです。

院政のための新たな組織作り

白河法皇は、自分の周囲にかつてない人員を配置しました。

【院の近臣】

上皇の住まいであり、院政が営まれる場所のことを「院御所(いんごしょ)」もしくは「後院(ごいん)」といいます。

白河上皇は、まるで天皇の御所のようにそこに自分の臣下の者を置きました。

とにかく摂関家からの干渉を避けていた白河法皇は、自分の近くに置く者を摂関家と関わらない身内、法皇に対して経済的な貢献をした中流貴族、そして自分が寵愛する者たちで固めたのです。

特にその中でも白河上皇の側近として力をつけていった者たちは「院の近臣(いんのきんしん)」と呼ばれました。

【北面の武士】

白河上皇は院御所を警護する者も用意しました。

彼らは院御所の北面に配置されたので「北面の武士」と呼ばれました。

白河上皇の時代は、有力寺院、特に比叡山延暦寺や奈良の興福寺などの僧兵たちが武力で発言力を強め、朝廷や院にとって無茶な要求を突きつける「強訴(ごうそ)」が横行していました。

そんな中で、都や白河上皇を守るための武力が必要となったのです。

実は、この北面の武士からのちの平清盛に続く伊勢平氏が台頭してきます。

荘園整理

1069年、白河天皇の父・後三条天皇が延久の荘園整理令を発令したのは有名です。

白河天皇も1075年と1093年の二度荘園整理令を出しました。

この法令で規則をクリアにし、成立の経緯がはっきりしない荘園や規定外の荘園を没収したのです。

結果、違法荘園は事実上の天皇領となって天皇家の経済力は増強され、摂関家や有力寺社は財源を削られることになりました。

 

白河天皇と仏教

白河天皇は熱心に仏教を信仰していました。

出家して法皇となったのは、1096年に皇女の媞子内親王(ていしないしんのう)を病気で失ったのがきっかけでした。

法勝寺を建立

もともと平安京の洛東・白河にあった藤原氏の別荘地が、白河天皇の后・賢子の父親だった藤原師実(もろざね)によって献上されました。

そこで白河天皇は1075年からこの地に寺院・法勝寺の造営を開始。

長い年月の間に金堂には盧舎那仏が本尊として祀られ、多くの建物と共に高さが約80メートルにもなる八角九重塔も建立されました。高い塔は東海道からもよく見え、評判だったそうです。

白河にはこの法勝寺を含めて白河天皇以降の歴代の天皇と、鳥羽天皇の中宮・待賢門院が建立した「勝」の文字がついた名前の六つの寺があり、総称して六勝寺と呼ばれました。

法勝寺はその中で最初に造営され、最大の規模を誇る筆頭寺院です。

これらの寺院造営のための経費は、朝廷の公費ではなく、官職が欲しい者に資金負担をさせる代わりに職を与えるという一種の売官制度によって作られたものでした。

平安時代の「生類憐れみの令」?

動物たちの殺生を禁じた法令としては、江戸時代の5代将軍徳川綱吉による生類憐れみの令が有名ですね。

実は、日本史上における動物たちの殺生を禁じる法はそう珍しくはありません。

白河天皇も仏教の教理を元に、2度発令しています。

1114年には京の町中で小鳥や鷹を飼うことを禁じ、違反者は逮捕、鳥籠は破棄されました。

1125年にも殺生禁断令を公布し、神社・皇室に献上する魚を採る網以外を禁じ、違反者の漁網は京都に送らせ、院御所門前で焼却させたのです。

狩りに使用する鷹・犬も自由にさせることが決められたそうです。

しかし、このいささか身勝手な法令も白河法皇の崩御によって廃止されました。

 

きょうのまとめ

今回は、白河天皇がどんな人物だったか、その業績を通して見てみました。

白河天皇とは、

① 人事権を掌握し、天皇家内部の皇位継承権までもコントロールした治天の君

② 院の近臣や北面の武士など院独自の人員を配置した組織作りを行い、違法荘園を整理して政治力、武力、経済力をつけ院政の基盤を作った人物

③ 熱心な仏教徒であり、取り巻く人々の財力を利用して法勝寺を建立した法皇

でした。

摂関家を押さえ込んだ実力を感じさせるタフでしたたかな人物像が浮かんできます。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku