始皇帝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

始皇帝と言えば、中国史の中でも特に有名な皇帝の一人です。

墓の内部に自分だけの帝国を作ろうとしていた、とか

始皇帝の墓の内部にはものすごい罠が仕掛けられている、とか

自分に従わない人々を何千人も生き埋めにした、とか・・・

沢山の民族を征服して、国の統一を成し遂げた彼には様々な伝説があり、映画化もされています。

今回は始皇帝について、興味深いエピソードを交えながら紹介していきたいと思います。

始皇帝はどんな人?

  • 出身地: 中華人民共和国の邯鄲(かんたん)市
  • 生年月日: 紀元前259年2月18日
  • 死亡年月日: 紀元前210年9月10日(享年49歳)
  • 中国戦国時代の秦王で、中国史上初めて統一を成し遂げた

始皇帝 年表

年表

紀元前259年(0才)趙の首都、邯鄲で誕生。母は趙妃、父は子楚(しそ)。誕生時のいみなは政。

紀元前249年(10歳)子楚が秦の皇帝になる。呂不韋(りょふい)が丞相(じょうしょう)に就任。

紀元前246年(13歳)父死去のため、皇帝になる。政治の実権は趙妃が握る。

紀元前235年(24歳)元丞相の呂不韋に書状を送る。呂不韋が服毒自殺をする。

紀元前230年(29歳)韓と趙を滅ぼす。

紀元前223年(36歳)楚を滅ぼす。

紀元前221年(38歳)斉が無抵抗で降伏して、戦国時代が終わる。この頃から政は「皇帝」の称号を使う。

紀元前214年(41歳)大運河、霊渠(れいきょ)の建設に着手する。

紀元前212年(43歳)皇帝の宮殿である阿房宮の建設に着手する。

紀元前210年(49歳)9月10日、死去。

享年まで他の民族との攻防に追われた始皇帝

強い皇帝

年表からも分かるように、沢山の国を武力で滅ぼし、斉に関しては無抵抗で降伏させてしまうほど、始皇帝はとても強い皇帝でした。

始皇帝の風貌については、

鼻は高く尖っていて眼は切れ長、胸は鷹のように突き出ていて、声は豺(やまいぬ)のようだ

という記述が残っています。

また、彼には恩を感じることはほぼなく、虎狼のように残忍だとも記されています。

その他、焚書(ふんしょ)を行って思想の統一を図ろうとしたり、巨大な陵墓(りょうぼ)の建設に着手したりと多大なる権力を持っていたことが現在からも分かります。

中国統一後

中国の統一を成し遂げた後も、北方や北西の遊牧民から攻め込まれる恐れが合ったため、始皇帝は土木工事も精力的に行っていました。

始皇帝が行った土木工事の代表例には、陵墓の他に霊渠や万里の長城などがあります。

霊渠とは始皇帝が軍事輸送のために中国南北を接続する目的で作った大運河で、長さは34kmにも及ぶ巨大なものです。

万里の長城については始皇帝の時代に1から建築に着手したわけでも、すべて完成したわけではありませんが、

勢力を強めた遊牧民が攻めてくるのを防ぐために、建築作業を精力的に行った最初の人物が、彼でした。

数十万人を動員して、多数の死者も出てしまった土木工事ですが、

当時のまわりの状況を考えると国の統一を守るためには必要不可欠なものでもあったのかもしれません。

始皇帝にまつわるエピソードと伝説

人質の子からの大きな出世

実は、始皇帝の父である子楚は、秦の王族ではありましたが、妾腹の子でした。

妾腹の子であるといういうことや、20人以上も兄弟がいたということもあり幼い頃に趙へと人質に出されていたのです。

政(始皇帝のいみな)がまだ6歳の時、当時の秦王であった実の曽祖父が、自分の兄弟が人質としているにもかかわらず趙を攻撃してきたときには、政は命の危険を感じて逃亡し、何とか生き延びました。

父が権力を強めて皇帝になって一安心と思いきや、皇帝になってからわずか3年で父が死去してしまったために、政は13歳で皇帝の座につきます。

しかし、13歳では政治的な権力を握るには幼すぎたため、はじめのうちは母である趙妃と呂不韋が実権を握ったのです。

皇帝なのに政治的な実権を握ることができないという期間を過ごした政は、紀元前238年に呂不韋が失脚すると実権を取り戻し、ものすごい勢いで周囲の国々を滅ぼしていきます。

斉が降伏した後には、中国全土を統一した初めての皇帝ということで、自ら「 始皇帝 」と自ら名乗るようになりました。

人質の子という不遇の幼少期を過ごし、皇帝の座についてから他の人物に権力を握られながらも、最後には中国という巨大な国の統一を成し遂げた、というエピソードが、今でも私達を惹きつけています。

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永遠に生きることを望んだ

始皇帝は、永遠の命にとても執着していました。

そして、老いること、死ぬことのない強靭(きょうじん)な体に強くあこがれていたために、部下に対して

伝説の山である蓬莱山(ほうらいさん)を見つけ出し、そこから仙人を連れてこい

という命令を出し、部下に蓬莱山を探させていた、という記録が残っています。

さらに、当時は水銀に不老不死の効果があると信じられていたために、彼は水銀を含んだ薬を飲んでいました。

そのため、水銀は彼の死の一因になっているとも言われています。

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今日のまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。始皇帝についていかがでしたでしょうか。

始皇帝とは?

① 人質の子から中国全土を統一した初めての皇帝

② 権力を手にしてからすごい勢いで他の国を征服した

③ 精力的に土木工事や思想の統一を行った

自分が権力を手にしてからは凄い勢いで他の民族と国を征服していったこと、

遊牧民族の侵略を防ぐために死者を多数出しながらも大規模な工事を行ったこと、

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)などで思想の統一を図ろうとしたこと、永遠の命を求めて部下を動かしていたことなどから、

始皇帝には「強いけれど残忍な皇帝」というイメージを持っている方もいるかもしれません。

しかし、命の危機すらあった幼少期を過ごした、皇帝の座に幼くして就いてしまったために、

最初は政治的な権力を手に入れることができなかった、などの来歴を考えると、一概に「 残忍な皇帝 」と言うことはできなくなってきます。

少々やりすぎな面があることも確かですが、始皇帝の不遇の時代における忍耐力や、

権力を握ってからの行動力には、見習うべき点も多く含まれているようです。

その他の記事についても始皇帝にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。










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