千利休の子孫が興した三つの「千家」

 

茶道に関わりのない方も、「表千家」「裏千家」などに聞き覚えはあることでしょう。

安土桃山時代の茶人・千利休子孫たちの系譜、

彼らから始まる茶の湯の流派についてご紹介します。

 

千利休の家族構成

千利休

千利休
出典:Wikipedia

千利休は生涯2人の妻を娶っています。

正式な妻以外の女性との間にもうけた庶子を含めて男子6人女子6人の子を残したと言われているのです。

先妻・宝心妙樹(お稲)

千利休の最初の妻は、お稲。

彼女の死後の法名・宝心妙樹ほうしんみょうじゅの名で呼ばれることが多いようです。

利休と彼女との間には、1人の息子と4人の娘がありました。

実は、2人の仲は円満ではなかったそうです。

宝心妙樹は、利休との結婚35年目頃に亡くなりました。

利休と宝心妙樹との間の子供たち

【長男】

千道安せんのどうあん

父親の利休と同じく茶人として高く評価されました。

豊臣秀吉の茶頭八人衆として活躍しましたが、利休切腹の後には、蟄居・謹慎となりました。

のち赦され、堺に戻って千家の家督を継ぎ「堺千家」を再興。

しかし跡継ぎに恵まれず、道安の死と共に家は断絶しました。

【長女】
茶人であった利休の甥・千紹二せんじょうじに嫁ぎました。
【次女】
利休の弟子で、秀吉の茶頭を務めるほどの実力者・万代屋宗安もずやそうあんに嫁ぎました。

彼女は美しく、秀吉に側室になるよう乞われた女性です。

しかし本人が嫌がり、父親の利休も、娘の威光で自分が秀吉に取り立てられたと言われることを嫌って拒否。

それが、利休の切腹命令の一因だという説もあるのです。

【三女】
千利休の門人であり、従兄弟の石橋良叱いしばしりょうしつへと嫁ぎました。
【四女】
吟。

元本能寺の僧侶から還俗した茶人・古市宗円ふるいちそうえんに嫁ぎました。

 

後妻・宗恩そうおん(おりき)

宝心妙樹が亡くなった翌年の1578年、利休は宗恩と再婚。

宗恩は法名、名前はおりきです。

茶の湯に精通した女性で、利休の理解者であり、補佐役として尽くしました。

 

利休と宗恩との間の子供たち

【養子】
千少庵せんのしょうあん

宗恩の連れ子。

利休と宗恩の再婚をきっかけに、利休の六女(母親の詳細不明)・お亀と結婚して利休の養子となりました。

【二男】
千宗林せんのそうりん

利休と宗恩との子で夭折。

【三男】
千宗幻せんのそうげん

利休と宗恩との子で夭折。

 

利休の庶子たち

利休には、詳細の伝わっていない女性との間に子がありました。

【庶長子】
田中宗慶たなかそうけい

楽焼きの名手の陶芸家です。

【庶子】
清蔵主せいぞうしゅ

詳細は不明。

【五女】
魚屋与兵衛よへえに嫁いだとされますが詳細不明。
【六女】

亀。

1576年ごろに、利休の養子となる少庵を婿としました。

2人の間の息子・千宗旦せんのそうたんこそが、現代に続く三千家への血統を残す人物です。

 

現代に続く茶の湯の名家「表千家」「裏千家」「武者小路千家」

利休の孫・千宗旦が三千家の源となります。

千利休の孫・千宗旦の子供たちが作る三千家

宗旦は、利休の希望により仏門に入り大徳寺に務めました。

宗旦の父・少庵は1581年、千利休は切腹の際に利休に連座して蟄居となりました。

その少庵が赦されて、千家の再興が可能となった時に、宗旦を還俗させて、父子で利休流の「わび茶」の普及に努めたのです。

宗旦自身は、政治との関わりを避け、生涯仕官しませんでしたが、彼の息子たちがそれぞれ大名家に仕えたおかげで、茶の湯が後世に伝えられることとなりました。

のち、宗旦に勘当された長男・宗拙そうせつ以外の3人、

・三男・千宗左せんそうさが、宗旦にゆずられた利休ゆかりの不審庵を拠点とした「表千家」を

・四男・千宗室せんそうしつが、不審庵の「裏」にあった「今日庵」を拠点とした「裏千家」を

・二男・千宗守せんそうしゅが、他の二家の近くの「武者小路通り」の「官休庵」を拠点とした「武者小路千家」を

興したのです。

利休からみれば曾孫ひまごの世代です。

三千家それぞれの違い

3つの流派には、さまざまな特徴と相違点があります。

比較的わかりやすいポイントを以下に記しました。

【古来の作法に忠実な千家本流・表千家】

・現在の家元は、第15代千宗左

・道具や仕草は裏千家と比べて質素だが、よりわびさびにこだわる流派

・茶を泡立てない

・一畳を6歩で歩く

・部屋に左足から入る

・男性の帛紗の色は紫、女性の帛紗は赤

【茶道界の最大流派・裏千家】

・現在の家元は、裏千家16代坐忘斎宗室ざぼうさいそうしつ

・茶道が廃れかけた明治期・戦後に茶道の普及に奔走し、学校教育との関わりも持った流派

・茶を泡立てる

・一畳を4歩で歩く

・部屋に右足から入る

・男性の帛紗の色は紫、女性の帛紗は朱色

【合理性の武者小路千家】

・現在の家元は、武者小路千家14代不徹斎千宗守ふてっさいせんそうしゅ

・流派の茶室が天明の大火、幕末兵火などによる焼失と再建を繰り返した経緯により、茶室や所作から無駄を極限に省き、「合理的な動き」を特徴とする流派

・茶を泡立てない

・一畳を6歩で歩く

・部屋に柱側の足から入る

・男性の帛紗の色は紫、女性の帛紗は赤

千宗旦から分れた3つの茶の湯の流派は共存共栄し、争うことはありませんでした。

だからこそ三千家はそれぞれが現代まで続くことができたのでしょう。

 

きょうのまとめ

今回は千利休の子孫たちと、3つの茶の湯の流派についてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 千利休の嫡男・千道安によって引き継がれた「堺千家」は断絶している

② 利休の娘・亀の3人の孫たちによって三千家が興された

③ 「表千家」「裏千家」「武者小路千家」は、それぞれの特徴を持ちながら共存共栄し、現代に続いている茶道の流派である

千利休の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「千利休とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku