メディチ家の支配体制が傾きだしたフィレンツェで、流星の如く現れ人々の熱狂的な支持を得た聖職者、
ジローラモ・サヴォナローラ。
厳格な信仰のもと、フィレンツェ初の共和制政治を敷いた一方で、最期は反対勢力によってわずか数年の内に殉教しました。
サヴォナローラとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。
今回はその生涯について、彼の足跡と共に辿っていきましょう。
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サヴォナローラはどんな人?
- 出身地:イタリア フェッラーラ
- 生年月日:1452年9月21日
- 死亡年月日:1498年5月23日(享年46歳)
- イタリアの聖職者、宗教改革者。フィレンツェに神政による共和制政治を敷いた。
サヴォナローラ 年表
西暦(年齢)
1452年(0歳)イタリアのフェッラーラで、兄2人姉1人を持つ末っ子として誕生。
1475年(23歳)教養学部を修めた後、医学の勉強を中断。実家を出てボローニャのドミニコ修道会に入会する。
1479年(27歳)フェッラーラに戻り、天使修道会にて聖書を教える。
1482年(30歳)フィレンツェのサン・マルコ修道院で神学教師に任命される。
1485年(33歳)サン・ジミニャーノ教会にて、神の天啓として教会の処罰と改革を説く。翌年も再び同趣旨の天啓を説く。
1487年(35歳)ボローニャ大学で一年契約で講師となる。その後各地へ説教のために派遣される。
1490年(38歳)メディチ家当主にフィレンツェへ呼び戻されると、日に日に人々から熱狂的な支持を得る。
1492年(40歳)フランス王シャルル8世の襲来と勝利を予言する。
1494年(42歳)同上の予言が的中し、仏王との調停に奔走したことで増々権威が高まる。フィレンツェに民主的共和制をもたらす。
1495年(43歳)反対勢力から度々攻撃を受け、教皇庁からも聖務禁止令を受けるなど、敵が増えていくなか説教活動を行う。
1498年(48歳)反対勢力に捕らえられ、宗教裁判の後に殉教。
サヴォナローラの生涯
ここからは早速、サヴォナローラの生涯についてご紹介します。
生真面目な青年
サヴォナローラは、1452年にイタリアのフェッラーラで誕生します。
当時のイタリアはルネサンス(文化を復興しようとする文化運動)の初期。
芸術や科学など、人間のあらゆる文化活動が「キリスト教信仰に基づく堅さ」を抜けて、「人間性主体の新たな可能性」を模索していた時期でした。
しかしそれは、中世までの伝統的な信仰を重んじるキリスト教信者たちにとっては、脅威の象徴でもありました。
サヴォナローラもルネサンスに脅威を抱いた人物の一人で、青年時代から既にヒューマニズムによる腐敗を嘆いていました。
彼はこのルネサンスの兆候が、芸術文化だけでなく、聖職者や政治家及び世俗の人々の堕落を招いていると強く感じていたのです。
そして大学での勉強を終えた23歳頃、彼は医学の研究を途中で放棄し、遂に聖職者としての道に進みます。
自らの足でボローニャへ赴き、「ドミニコ会」の門を叩いたのです。
「ドミニコ会」
ドミニコ修道会、とも言われるこのキリスト教の一派について少し見てみましょう。
・13世紀のスペインで誕生
・禁欲的
・異端を取り締まる
・改宗を勧める
・各地で熱心に説教を行う
・托鉢をして人々からの施しのみで生活する
以上からも分かるように、自分にも他人にも厳しい、敬虔で厳格なカトリック信者たちで構成されています。
サヴォナローラも例に漏れず、入会してからは徹底的に禁欲生活と研究のための読書に明け暮れました。
そしてこのまじめさが評価されると、20代後半で故郷の修道院で聖書を教えることになり、その熱心さが評判を呼び30歳の時にはフィレンツェに神学教師として招かれました。
彼を呼び寄せたのは、フィレンツェを支配していたメディチ家当主でした。
しかしサヴォナローラは、この地で堂々とメディチ家の支配体制、及び聖職者たちの腐敗について批判します。
彼の宗教改革者としてのカリスマ性は瞬く間に人々の心を捉え、当時没落しつつあったメディチ家以上に支持を集めていったのでした。
フィレンツェの政変
メディチ家の衰えと政情不安な時代に、突如現れたサヴォナローラの権威が最高潮に高まったのは、1494年のことでした。
フランス王シャルル8世がフィレンツェに侵攻してきたのです。
そしてフィレンツェはフランスに敗北してしまうのですが、実はこの一連の出来事は2年前にサヴォナローラが予言していたことだったのです。
サヴォナローラは、
・シャルル8世との交渉に奔走
・政変後の党派同士の争いの調停に奔走
といった活動によって高く評価されたのでした。
その後、彼はフィレンツェに政治改革をもたらします。
従来のメディチ家による事実上の独裁政治から、神政政治を基礎にした共和制へと政変。
これはフィレンツェ史上、最も民意を反映する政治体制でした。
夢破れて
フィレンツェで神政政治を行うことによって、この地を拠点に各地で再び厳格な信仰心を人々に取り戻させる活動をしよう、と考えていたサヴォナローラ。
しかしそれが叶うことはありませんでした。
彼の台頭と成功に、恐れと嫉妬を抱いたフィレンツェの貴族や市民が「アッラビアーティー」(憤激党)を結成。
この内部の反対勢力はやがて外部の反対勢力と結びつき、サヴォナローラは次第に追い込まれていくことになりました。
中でも彼にとって強大な敵として立ちはだかったのが、ミラノ公と教皇アレクサンデル6世でした。
サヴォナローラは、キリスト教の最高権威である教皇から度々説教の禁止令を下されますが、それを巧みにかわしながら活動を続けます。
心酔している人々はサヴォナローラの説く聖書の教えに熱心に耳を傾け、贅沢品や派手な芸術品などを次々に燃やしていきました。
しかし1948年には、アッラビアーティー及び反対勢力の執念が実を結び、フィレンツェの政権は反対派に有利に働くことになります。
サヴォナローラは教皇庁から破門の勅令を受け、弟子の誤った行動により彼らは裁判にかけられたのち、絞首と火あぶりに処されて殉教しました。
サヴォナローラの原点
ここでは、サヴォナローラにもう少し近づくために、彼にまつわる小話をひとつご紹介します。
青年時代から一貫して敬虔な信仰心を貫いたサヴォナローラ。
最期は危険人物として処刑台に消えることになった彼ですが、高い教養と強い目的意識、そして人々を惹きつけるカリスマ性は、後世までその功績を伝えるに至りました。
そんな彼の原点を探るうえでひとつのカギを握るのが、祖父の存在です。
父方の祖父だった人物はフェッラーラでは有名な医者であり、厳格な道徳的教えと宗教的原則に則った人物でした。
そして少年時代のサヴォナローラは、この祖父による教育を受けていたのです。
つまり見方によっては「時代遅れ」とも言えるサヴォナローラの厳格さを軸にした信念は、中世の時代に少年期を過ごしたこの祖父からの教えが、少なからず関係していると考えられるでしょう。
きょうのまとめ
今回は15世紀後半のイタリア、フィレンツェの聖職者サヴォナローラについて、その生涯と主な功績を共に見てきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、サヴォナローラとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 15世紀末にフィレンツェに台頭した宗教改革者。
② ルネサンスによる堕落と腐敗を批判し、敬虔で厳格なキリスト教信仰への回帰を説いた。
③ 時代に沿わない危険人物とされた一方で、そのカリスマ性は同時代の芸術家たちをも魅了した。
ルネサンスの華美な装飾を批判したサヴォナローラですが、一方で彼の思想に魅了された同時代の芸術家は多くいました。
ボッティチェリやミケランジェロなど、まさにルネサンスを代表する芸術家たちも、その中の一人なのです。
【参考文献】
・ブリタニカオンラインジャパン 大項目事典「サボナローラ」
・Britannica ACADEMIC -Girolamo Savonarola-
・世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0902-031.htm・
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