坂本龍馬はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

坂本龍馬は、日本史でも1・2位を争うほど人気のある人物です。

ですが、実際に何がすごかったのか、いまいちピンと来ていない方も多いはずです。

坂本龍馬といえば、刀を差して立っている写真が有名で、暗殺された人物ですよね。

犯人と殺された理由については、いまだ謎です。

有名な名言なんかもありますね。

あとは武田鉄矢さんの名前を思い出す方もいらっしゃるかもしれません。

今回は、意外と知らない幕末のヒーロー・坂本龍馬について、

簡単にご紹介していきたいと思います。

 

坂本龍馬はどんな人物?

プロフィール
坂本龍馬

出典:Wikipedia

  • 出身地:土佐(現在高知県)
  • 生年月日:1835年11月15日(新暦では1836年1月3日)
  • 死亡年月日:1867年11月15日 (享年33歳)
  • 薩長連合をあっせんし、「船中八策」を起草した人物。中岡慎太郎とともに京都の近江屋で暗殺される。

 

坂本龍馬の年表

年表

西暦(年齢)

1835(1歳)土佐の郷士・坂本八平の次男として生まれる。

1846年(12歳)楠山塾に入るもすぐに退学。母の幸が死去。

1848年(14歳)日根野道場に入門する。

1853年(19歳)江戸へ遊学、千葉定吉の道場に入門。佐久間象山塾に入学し、砲術を学ぶ。

1861年(27歳)武市半平太たけち・はんぺいた率いる土佐勤王党に参加する。

1862年(28歳)土佐藩を脱藩する。勝海舟の門下生となる。

1865年(31歳)亀山社中(のちの海援隊)を組織する。

1866年(32歳)薩長連合を斡旋あっせんする。寺田屋で襲撃される。

1867年(33歳)船中八策を起草する。いろは丸事件が起こる。近江屋で暗殺される。

 

坂本龍馬の生涯

龍馬の幼少時代

坂本龍馬は土佐の郷士ごうし、坂本家の次男として生まれました。

二男三女の末っ子で、少し甘やかされて育ったようです。

もともと坂本家は、豪商・才谷屋さいたにやの分家でした。

そのため、龍馬は約500坪もある屋敷で育ったようですよ。

母の死後は、姉の乙女おとめにスパルタ教育を施されます。

手荒い方法で、幼い龍馬の精神力を叩き直したそうです。

龍馬がそんな乙女に送った手紙の中にある、

「日本を今一度せんたくいたし申候」という言葉は非常に有名です。

才能が開花

龍馬は19歳のとき、剣術修行のために江戸へ遊学することになります。

その年の6月、ペリーが黒船に乗って浦賀へやってきました。

大パニックとなった江戸の地で、龍馬は過激な尊皇攘夷という思想に触れることになるのです。

27歳の頃、武市半平太が江戸で結成した土佐勤王党に参加します。

土佐勤王党とは、尊皇攘夷を掲げてできた組織です。

翌年、龍馬は土佐藩を脱藩し、勝海舟の門下生となりました。

この頃から、交渉人・龍馬としての才能が発揮されるようになります。

薩長同盟の成立

31歳の頃、のちに海援隊となる亀山社中を結成し、翌年には薩長同盟を成立させました。

それまで仲が悪かった薩摩藩と長州藩に対して、現実的な条件を提示したのです。

その条件とは、

亀山社中が薩摩藩名義で兵器を調達し、当時、幕府ににらまれ表立って兵器を買えなかった長州藩に転売、

その代わりに米が足りていない薩摩藩へ長州が米を送る

というものでした。

2つの藩は意地を張り合っており、歩み寄らせるのは大変だったそうです。

しかし中岡慎太郎とともに、龍馬はついに説得に成功します。

その薩長同盟こそが、倒幕の原動力となっていくのです。

大政奉還をとなえるも直後に暗殺

また1867年6月、長崎から兵庫へと向かう船の上で、

土佐藩の後藤象二郎ごとうしょうじろうらと大政奉還策について話し合います。

その際、海援隊士・長岡健吉ながおかけんきち「船中八策」を書き留めさせました。

この船中八策は、新政府の構想を提示したものです。

内容としては、大政奉還、議会の設置、憲法の制定などが書かれていました。

しかし、これは龍馬独自のアイデアではなく、

幕臣の大久保一翁おおくぼいちおうや儒学者の横井樟南よこいしょうなんの影響を受けていると言われています。

10月3日、後藤象二郎はこれに基づいた「大政奉還建白書」を、土佐藩の名で将軍・徳川慶喜に提出します。

そして1867年10月15日、ついに大政奉還が実現するのです。

しかし大政奉還からわずか1ヶ月、龍馬は京都河原町の近江屋にて、何者かによって暗殺されます。

京都見廻組の犯行が有力視されていますが、いまだに真相ははっきりしていません。

ともに襲撃された中岡慎太郎とともに、京都の地で今も眠っています。

 

坂本龍馬にまつわるエピソード

勝海舟を斬りに行くも説得された・・・のは嘘?

龍馬には、勝海舟との有名なエピソードがあります。

勝海舟は当時、軍艦奉行並という幕府の役職についていました。

尊王攘夷派からは開国派とみなされ、常に暗殺の危機にさらされていたといいます。

ですが勝の考え方は、海防を強化して外国に対抗できる力をつけようというものでした。

龍馬は勝海舟を斬りにいったものの、逆に説得されてしまい、弟子入りをしたと言われています。

というのも、勝海舟の追賛一話ついさんいちわには、そのように記されているからです。

しかしこの話は、勝の思い違いではないかと言われています。

また勝海舟には大言壮語なところがあったそうなので、話を大きくしたのではないかとも言われます。

龍馬は勝海舟を斬りに行ったのではなく、海軍について話を聴きに行ったのではないかと推測されているのです。

ですが最終的に勝海舟が龍馬を気に入り、勝の下で海軍の技術を学ぶことになったのは事実です。

亀山社中の給料は安かった!?

海援隊は土佐藩公認の組織でした。

ですが、その前身である亀山社中は龍馬の私的な組織です。

当初は亀山社中ではなく、単に「社中」と呼ばれていたそうです。

亀山社中は海運・海軍・商取引の機能を持った、日本初株式会社とされています。

株式会社とは、出資した人と経営する人が別々の仕組みを持つ会社のことです。

龍馬は、薩摩の小松帯刀こまつたてわきと西郷隆盛に話を持ち込み、

設立のための資金を出してもらったといいます。

のちに外務大臣となった陸奥宗光も亀山社中のメンバーでした。

そして月給は隊長の龍馬から、いわゆる平社員まで3両2分の一律だったといいます。

その当時、新選組の隊員は10両、局長の近藤勇に至っては月給50両だったそうです。

亀山社中のお給料は、高くはなかったと言えそうですね。

日本初の新婚旅行をしたのは龍馬

1866年1月21日、薩長同盟が成立しました。

そして、その2日後である23日、龍馬は京都の寺田屋で襲撃されます。

妻・おりょうのおかげで命は助かりましたが、龍馬は両手の指に深い刀傷を受けます。

薩摩藩に保護された龍馬は、お龍とともに薩摩の船で鹿児島まで湯治とうじに向かいました。

これが日本初新婚旅行だったと言われています。

高千穂峰の山頂で天の逆鉾あまのさかほこを抜いてみたり、

ピストルで鳥を撃ち落としてみたりと、二人で楽しい時間を過ごしていたようです。

 

きょうのまとめ

今回は坂本龍馬について、簡単にご紹介しました。

坂本龍馬は、

① 倒幕の原動力となる薩長同盟を成立させる

② 日本初の株式会社を設立した

③ 日本初の新婚旅行にいった

④ 大政奉還を唱え実現に向け尽力した

人物と言えます。

坂本龍馬については、他にも記事を書いています。

興味を持たれた方は、ぜひご覧になってください。

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