西郷隆盛の妻は3人いた!スガ・愛加那(あいかな)・イトとのエピソードまとめ

 

明治維新の立役者

西郷隆盛さいごうたかもりには3人の妻がいました。

と言っても、同時にいたわけではありませんので安心してください。

1人目はスガ、2人目は愛加那あいかな、そして3人目はイトという女性です。

そんな3人の妻とのエピソードを、西郷隆盛の波乱の生涯のエピソードとともにご紹介します。

 

苦労をかけて離婚したスガ

1852年、西郷隆盛は両親のすすめで、伊集院スガという女性と結婚しました。

ですがその幸せとは裏腹に、同年には祖父・父・そして母が次々と他界してしまいました。

そして26歳にして西郷は、西郷家の家督を継ぐこととなります。

7人兄弟であった西郷家は生活が厳しく、結局は先祖代々の家を売り払い、郊外で借家暮らしをすることとなったのです。

しかしこの頃、当の西郷隆盛は江戸で薩摩藩のために一生懸命働いていました。

これでは家庭崩壊目前ですね・・・。

そんな状況を見かねた伊集院家が苦労する娘を引き取る形で、1854年11月に二人は離婚したということです。

 

別れる運命にあった!?島妻・愛加那

西郷隆盛の二人目の妻・愛加那あいかなは、

奄美大島あまみおおしま(現在の鹿児島県にある島。沖縄本島に近い。)の女性です。

どうして二人が出会うことになったのか、そこからご紹介していきます。

藩主・島津斉彬の急死

西郷隆盛は藩主・島津斉彬しまづなりあきらに忠義を尽し、

家庭を犠牲にしてまで薩摩のために仕事をしていたことは先ほどご紹介しました。

斉彬は下級武士だった西郷を、側近にまで取り立てれくれた人物です。

そんな斉彬に対して、西郷は非常に恩義を感じていたことでしょう。

島津斉彬は1858年、西郷が32歳の時に急死してしまいます。

おそらくコレラが死因だったのではないかと言われています。

愛する藩主を亡くした西郷は途方に暮れ、殉死をしようとしました。

しかし月照げっしょうという僧に説得され、死ぬことをやめたそうです。

月照と入水自殺を図る

ですがこの頃、「安政の大獄」という江戸幕府の大老・井伊直弼による政治的弾圧によって、

月照も追われることになってしまいます。

そこで西郷は月照を保護するため、薩摩藩に迎えました。

しかし当時の薩摩藩は、幕府から目を付けられている月照を匿っておくのは危険と判断し、月照を薩摩藩から追い出して殺そうとしていたと考えられています。

これに気づいた西郷と月照の二人は死を覚悟し、夜の錦江湾きんこうわん(現在の鹿児島県にある)に船の上から身を投げました。

その結果、月照は亡くなりますが、西郷は一命を取り止めました。

この西郷の行動に困った藩は幕府に死亡届を提出、

名前を「菊池源吾げんご」に変えさせて奄美大島に向かうように命じます。

島の妻は置いていかなければならなかった

そういった経緯があり、西郷隆盛は奄美大島へとやってきました。

西郷は当初、島の暮らしには馴染めなかったようです。

本当は流罪で流されたわけではなかったのですが、

島民たちからはそのような目で見られることが苦痛だったようです。

しかし島でかつての友人と再会したり、現地の子どもたちに手習いを教えるなどの経験を通じ、

徐々に島の生活に慣れていったと言われています。

そんな西郷に、於戸間金おとまかねという娘を妻にとする話が持ち上がりました。

そして1859年11月、於戸間金は愛加那あいかなと名前を変え、西郷の島妻あんごとなりました。

当時の薩摩藩には、島で妻を迎えることは許すけれども、島を出るときは置いていかなければならないという決まりがありました。

そんな妻のことを、島妻と呼んだそうです。

なんとも悲しい運命にありそうな島妻ですが、これは名誉なことだそうで、なりたい人はたくさんいたと言われています。

なお、間に生まれた子どもは連れて帰ることができました。

西郷と愛加那は非常に仲が良かったことでも知られており、菊次郎と菊草(菊子)という二人の子どもにも恵まれました。

二人の結婚生活は3年間続きますが、時代が混乱していくとともに、再び西郷の力を必要とする人々が出てきます。

そして1861年、西郷に鹿児島に戻るようにとの命が下されました。

そのため、当時はまだお腹の中にいた菊草(菊子)の顔を見ることなく、西郷は帰藩することになりました。

すぐに西郷は再び島に流されることとなり、徳之島とくのしまで生活をすることになります。

徳之島は奄美大島から近いので、愛加那は長男と生まれたばかりの娘を連れ、西郷に会いに行ったといいます。

 

前妻との間の子も育てた糸子

1865年、西郷隆盛は39歳のとき、

薩摩藩士の岩山八郎太という人の娘・イト(糸子とも呼ばれる)と結婚します。

薩長同盟が結ばれる1年ほど前のことでした。

西郷とイトとの間には、寅太郎・午次郎(午二郎とも)・酉三ゆうぞうという三人の男子が生まれます。

イトさんのすごいところは、愛加那との間に西郷がもうけた二人の子供(菊次郎と菊草)を引き取って育てたことです。

成長した菊次郎は京都市長を務め、菊草は大山いわおの弟である誠之助に嫁ぎました。

立派に育て上げたイトさんは、きっと立派な方だったのでしょう。

ちなみにイトさんのお墓は、東京の青山霊園にあるそうです。

 

<青山霊園>

 

きょうのまとめ

今回は、西郷隆盛の三人の妻たちをご紹介しました。

① 家庭を顧みずに仕事をしていたら離婚することになった1人目の妻・スガ

② 奄美大島に置いていくしかなかった2人目の妻・愛加那

③ 自分の子だけでなく、前妻の子を引き取って育てた3人目の妻・イト

西郷隆盛が大きな仕事を成し遂げられた裏には、

素晴らしい女性たちの支えがあったからかもしれませんね。

西郷隆盛の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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