最澄と空海の関係について簡単に紹介!絶縁状態になった理由とは

 

天台宗の開祖・最澄さいちょう、そして真言宗の開祖・空海

仏教界の大スターであり、何かと比べられる二人は絶縁状態に陥っていました。

二人の間に何があったのでしょうか。

今回は最澄と空海の関係の移り変わりについて、簡単に紹介していきます。

 

一緒に入唐するも地位は全く違った

804年、遣唐使節団が海を渡りました。

その中には最澄や空海といった、僧の姿も。

のちに仏教界の天才と呼ばれる二人ですが、入唐するときの地位は全く異なるものでした。

エリート僧・最澄

最澄はすでに東大寺で具足戒ぐそくかい(仏教において、僧・尼僧が守るべき戒律のこと)を受けた、国家公認の僧でした。

桓武天皇の側近として祈念や仏法を行うなど、すでに名声があったのです。

そんな最澄は勅許を得て、還学僧げんがくそう(特定の分野を学ぶ短期留学生のこと。最澄はおよそ1年で帰国)として入唐しました。

無名の僧だった空海

一方、当時の空海は無名の僧

それまでは私度僧(正式な許可なしに出家した僧や尼僧)として各地を放浪していたと考えられており、入唐時は留学僧の一人に過ぎませんでした。

なお、空海は本来ならば20年間は唐にいなくてはいけなかったのですが、規則を破って2年で帰国しています。

エリートの最澄、その他大勢の一人だった空海。

一緒のタイミングで唐に渡ったとはいえ、二人の差は明らかなものでした。

また現地でも、二人は会うことはなかったといいます。

 

空海から密教を学んだ最澄

帰国後の809~813年の間、二人には交流がありました。

それどころか最澄は、地位も年齢(7歳ほど年下)も下の空海から、密教を教えてもらっていたのです。

唐であまり密教を学べなかった

というのも、最澄は帰国する前の1ヶ月半、越州の龍興寺という寺院で密教を学んでいました。

短期間でしたから、そのときの最澄には密教の本質はわからなかったようです。

一方空海は、長安で恵果という中国の皇帝から信頼されるほどの僧から、直接密教を学んでいました。

そこで最澄はメンツなど捨て、空海に密教の教えを請うたのです。

空海から灌頂を受ける

最澄は、空海と書や経典のやりとりを行いました。

空海は唐から、多くの真言の書物を持って帰って来ていたからです。

さらに弟子の泰範たいはんを身代わりとして、空海のもとへ修行に出しています。

そして最澄は、空海から密教の灌頂かんじょう(伝法・授戒の儀式で、頭に水を注ぐこと)も受けました。

 

密教に対する考え方と弟子で決裂

良好に見えた両者の関係ですが、ある経典がきっかけにヒビが入ってしまいます。

最澄は『理趣釈経』という経典を貸してほしいと頼みましたが、空海はこれを拒否したのです。

これは、二人の密教に対する考え方の違いが原因とされています。

さらにこの時期、弟子の泰範が空海のもとへと去っていったのです。

最澄は泰範にまるでラブレターのような熱い手紙を出しましたが、結局彼は戻ってきませんでした。

この結果、最澄と空海は絶縁状態となったのでした。

 

きょうのまとめ

今回は仏教界の大スター、最澄と空海の二人の関係について簡単に紹介しました。

① 同じ年に唐へ留学したが、このときは二人に面識はなかった

② 帰国後に二人の交流が始まり、最澄は空海に密教の教えを受けた

③ 密教に対する考え方・弟子の奔走によって、二人は絶縁状態となってしまったと考えられている

こちらのサイトでは他にも、最澄にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 
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