三国志最強の一人として名高い武将の項羽を破って、
中国を統一した劉邦。
彼には多くの賢い部下たちがいたことで知られています。
劉邦は、「自分は部下たちを信頼し、部下たちの力を借りることによって天下を統一することができた。」という内容の言葉も残しています。
今回は前漢の初代皇帝、劉邦を支えた部下たちの中でも「漢の三傑」と呼ばれる三人の部下についてまとめていきます。
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項羽との最後の戦いも、部下の助言を聞き入れて起こった
実は、劉邦が項羽に勝つ「垓下の戦い」が起こる前には、
劉邦が率いる秦軍、
項羽が率いる楚軍
の間には休戦協定が結ばれていました。
楚軍は食糧不足などで疲弊していたために、休戦協定が結ばれると本拠地への帰還を始めます。
そのときに、劉邦の部下である張良と陳平は、
今が弱っている楚軍を滅ぼすチャンスです
と言って、楚軍をさらに攻撃するように劉邦を説得したのです。
劉邦が彼らの意見を聞き入れて楚軍への攻撃を開始した結果、途中で苦戦しましたが無敗の武将、項羽に勝つことができました。
ちょっとずるいやり方ではありますが、このエピソードからは部下たちの助言を聞き入れることができる、劉邦の器の大きさが感じられます。
劉邦を支えた部下たち
張良(ちょうりょう)
「鴻門の会」というお話をご存知ですか?
鴻門の会とは、劉邦が項羽よりも早く手柄を立てたことにより項羽を怒らせてしまったために、何とか謝罪しようとして部下の力を借りて宴会を開き、謝罪の機会を得たときのお話です。
この宴会の最中に、当時は項羽の軍師だった范増が
「この機会に劉邦を殺しなさい。」
と項羽に進言し、剣舞に見せかけて劉邦を殺そうとします。
この際に、機転を利かせて劉邦を逃がした部下の一人が張良です。
張良は他にも劉邦を助けたという話が残っており、後に漢の三傑の一人と呼ばれるようになります。
韓信(かんしん)
韓信は、元々項羽の部下でした。
しかし項羽の下では自分の才能を認めてもらうことができず、項羽に対して不満を持っていました。
劉邦が項羽から寒中に左遷された際に、韓信は劉邦に出会うことになります。
ある時から劉邦の部下になった韓信でしたが、初めは劉邦から才能を認めてもらうことができずまたしても不遇の時代を過ごします。
この不遇の時代に韓信は、漢軍の兵站(*)の責任者だった蕭何と何度も語り合います。
*軍需品・食糧・馬などの供給・補充や、後方連絡線の確保などの任務
そのうちに蕭何は韓信を異才と認め、何度も劉邦に韓信のことを推薦していました。
蕭何に何度も推薦されてやっと劉邦に認められるようになった韓信は、絶頂期には沢山の武功を立てて楚王にもなりました。
蕭何(しょうか)
蕭何はいち早く韓信の才能を認め、上司である劉邦に韓信を取り立てるようにと説得を行った人物です。
元は江蘇の下級官吏でしたが、劉邦に仕えて参謀にまで出世しました。
秦の都だった咸陽に入った後には劉邦の丞相になっています。
そして、漢と楚の抗争中には関中を治めるという大役を務めます。
劉邦が天下を平定した後には臣下の最高位である相国にも任じられるほど、劉邦から厚い信頼を得ていました。
きょうのまとめ
今回は劉邦の部下の中でも特に有名で、漢の三傑として知られている張良、韓信、蕭何の三人について紹介しました。
漢王になってからはだんだん疑い深くなって功臣に冷たい処遇をするようになってしまう劉邦ですが、
漢王になるまでと、漢王になった初めの頃は、部下たちの意見をきちんと聞き入れることができる名君でした。
劉邦にはこの三人の部下以外にも沢山の賢い部下たちがいたとされています。
是非他の部下たちのことについても調べてみてください。
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