劉邦とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

日本でも有名な漢の初代皇帝劉邦(りゅうほう)は、

部下の意見をきちんと聞き入れることができる大きな器量を持っていて、

多くの優秀な部下を持っていたことでも知られています。

下級官吏から皇帝にまで出世を遂げた劉邦の人生に、興味がわいてきませんか。

今回は彼の人生についてまとめ、彼に関する伝説を紹介していきます。

劉邦はどんな人?

  • 出身地: 現在の中華人民共和国、豊県
  • 生年月日: 紀元前256年(紀元前247年という説もあります)
  • 死亡年月日: 紀元前195年6月1日(享年61歳)
  • 漢の初代皇帝になった人物

劉邦 年表

年表

(年齢は紀元前256年に誕生したものとして計算しています)

紀元前256年(0歳)江蘇省沛県(こうそしょうはいけん)、現在の中華人民共和国豊県で三男として誕生する。

紀元前209年(47歳)推薦されて県令になる。

紀元前208年(48歳)秦軍と戦って敗れる。その後、碭(とう)を攻め落とす。

紀元前206年(50歳)秦の都である咸陽(かんよう)を項羽よりも先に占領する。

紀元前205年(51歳)彭城(ほうじょう)の戦いで、項羽に敗れる。

紀元前203年(53歳)垓下(がいか)の戦いで、項羽に勝つ。

紀元前202年(54歳)漢を建国し、初代皇帝となる。

紀元前195年(61歳)戦でおった傷で病状が悪化し、死去。

とにかく人望が厚い人だった

劉邦は沛県で下級官吏を務めていたころから、特に真面目に仕事をこなす人物ではありませんでした。

官吏としての仕事はそんなに忠実にこなしたわけではなかった彼ですが、身分や力の弱いものに対しても優しいという人として立派な面を持っていたのです。

そんなこともあって、官吏を務めていたころから劉邦はとても人望がある人物でした。

「 仕事で失敗しても周りの人が彼を熱心に擁護した。 」

「 彼が酒屋に行けば自然と店が満席になって盛り上がった。 」

などの、劉邦が人から好かれるエピソードが多く記録されています。

自分よりも身分の低い人でも、その人物が有能だと分かっていれば意見を聞き入れる器も持っていたため、部下にも恵まれていました。

武功だけの面で見れば劉邦は項羽に勝つことはできません。

しかし、一人で何でも決断してしまい、周りをあまり信用しなかった項羽に対して、劉邦は自分だけの考えで物事を決めるのではなく、部下にも助言を求めることができたり、部下の才能をきちんと認めたりすることができるという人徳を持っていました。

劉邦が武功の面では数段勝っている項羽に勝つことができたのも、部下による助言を聞き入れる器があったからです。

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劉邦に関するエピソードや伝説

正妻は中号の三大悪女の一人

劉邦については、正妻である呂雉(りょち)も有名です。

彼女は劉邦が皇帝となるまで育児に家事にと夫を支えるために尽力した良い奥さんでした。

劉邦が皇帝となった後もまだまだおさまらない内乱の鎮圧に劉邦が直接赴かなくてはならなかったとき、彼女は劉邦の賢臣たちの助けを借りながら宮中の平和を保っていたと言われているのです。

しかし劉邦が亡くなってからは人が変わったように残忍な性格になってしまい、劉邦の妾やその息子たちを殺害していきます。

彼女の豹変ぶりを見て、実の息子がショックを受けて酒浸りになり早くして亡くなってしまうなど、呂雉に関しては怖いエピソードもたくさん残っています。

結局彼女の行き過ぎたやり方が原因で劉邦の賢臣たちは政治に関与することがなくなり、せっかく夫が建国した漢という国の政治的な腐敗が進んでしまいました。

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弱い人の立場を考える、優しい人だった

劉邦が秦を滅ぼして関中を占領した時もエピソードです。

関中の住民は長年に渡って秦の厳しい法律や独裁政治に苦しめられてきただろうと考えた彼は、今までの法律を全て廃止して、「 法三章 」というものを発表しました。

その内容は、「 人を殺したら死刑とする。 」、「 人を傷つけたら、傷ついた人のけがが治るまで投獄する。 」「 人のものを盗んだら、盗んだものの程度によって罰を与える。 」というものです。

それ以外に法的な規則をすぐには定めなかったため、関中の住民は「 法三章 」を聞いてとても喜んだとされています。

実は何回か項羽に殺されそうになった

項羽は垓下の戦いで劉邦に負けるまで、戦に負けたことがありませんでしたが、劉邦は項羽相手以外でも何度も負け戦を経験し、項羽を怒らせて殺されかけたこともあります。

秦の都である咸陽を占領した際には、自分よりも先に都に入ったということで項羽を怒らせます。

劉邦が何とか項羽に許してもらおうとして、劉邦と項羽が会うことになったのが「 鴻門(こうもん)の会 」です。

この時に劉邦は項羽の手下によって殺されかけますが、部下の機転によって何とか殺されずに済みました。

彭城の戦いでも、劉邦は項羽の強さに圧倒されます。

何と、項羽が率いていたわずか3万程度の軍勢に、劉邦と彼の部下が率いていた56万ほどの軍が負けてしまったのです。

劉邦は項羽のあまりの強さに驚いて、自分の子どもを見捨ててまでげようとした、という劉邦にしては珍しく少々残酷なエピソードも残っています。

ちなみに劉邦は自分の子供を捨てて逃げようとしたことを部下に注意されて、子供を捨てて逃げようとするのはやめたようです。

きょうのまとめ

最後までお読み頂いて、ありがとうございました。

劉邦とは?簡単にまとめると

① 漢の初代皇帝

② 人望がとても厚く、部下の意見を聞き入れることができる器の大きい人だった

③ 正妻は中国の三大悪女として知られている

と言えるのではないでしょうか。

その他にも劉邦にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

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