劉備玄徳とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

劉備玄徳(りゅうびげんとく)は、

在位期間こそ短いものの、とても人望が厚い蜀漢(しょくかん)の初代皇帝です。

蜀漢は、三国時代に曹操(そうそう)が治めていた魏、孫権(そんけん)が治めていた呉、蜀のうちの蜀の国のことを表しています。

歴史書でもとても優秀で優れた人物だと記されていて、

彼の部下には諸葛孔明、関羽、張飛などの誠実で有能な人物が多くいます。

今回は、劉備玄徳の人物像と簡単な年表、エピソードについて簡単に紹介します。

 

劉備玄徳はどんな人?

  • 出身地: 涿州市(たくしゅうし)、中華人民共和国の河南省
  • 生年月日: 161年、月日不詳
  • 死亡年月日: 223年、4月24日、もしくは6月10日(享年63歳)
  • 人望が厚く礼儀正しい、蜀漢の初代皇帝

 

劉備玄徳 年表

年表
西暦(年齢)

161年(0歳)現在の中華人民共和国河南省の涿州市に生まれる。

175年(15歳)母の言いつけで、叔父の援助を得て儒学者の蘆植(ろしょく)のもとで勉学に励む。

184年(24歳)黄巾(こうきん)の乱がおこり、関羽、張飛らと共に義勇軍を結成する。

191年(31歳)袁紹(えんしょう)が率いる軍と戦って、戦功を立て、平原県の仮の令の地位を得る。

193年(33歳)曹操に攻められていた陶謙(とうけん)を助け、4千人の兵を与えられる。

194年(34歳)陶謙より豫洲(よしゅう)の管理職に推挙される。

198年(38歳)呂布(ろふ)に攻められて、曹操に助けられる。

206年(46歳)諸葛孔明を軍師として迎え入れる。

208年(48歳)赤壁の戦いにて、諸葛孔明らの努力もあり曹操に勝利する。

219年(59歳)定軍山(ていぐんざん)の戦いで、夏侯淵(かこうえん)達を処刑する。

221年(61歳)蜀漢を建国し、初代皇帝となる。

221年(61歳)夷陵(いりょう)の戦いで孫権に対して報復をしようとして逆に追い詰められ、白帝城に逃げ込む。

222年(62歳)孫権から白帝城に和睦の申し入れが届き、和睦を許可する。

223年(63歳)諸葛孔明、劉永(りゅうえい)、劉理(りゅうり)らに遺言を残して死去。

 

劉備玄徳の生涯

生まれ

劉備玄徳は漢の皇帝の血をひく家系に産まれ、父親も官吏を務めていました。

しかし父親が早くに亡くなってしまったため、とても厳しい生活を送っていたのです。

15歳の時に勉学を始めることができたのも、叔父の援助があったおかげです。

劉備玄徳は勉学を始めた先で沢山の学友にも出会いました。

他の人ととても礼儀正しく接することができた劉備玄徳は、

勉学などを通じて著名人とも知り合うことになっていきます。

学友の中には後に武将として頭角を現すことになる公孫瓚(こうそんさん)や兄弟のように仲が良くなった、同郷の高誘(こうゆう)などがいます。

黄巾の乱

黄巾の乱の際に劉備玄徳が挙兵すると、彼に従う人たちはたちまち増えて武功を立てていき、

若くして才能を認められて地位を与えられます。

しかし曹操に攻められた際には、彼の強さに怖気づいて敗走したこともあります。

その際に劉備玄徳は少しでも早く逃げるため、

自分の妻である甘夫人(かんふじん)と長男の阿斗(あと)を捨てて逃げようとしました。

結局甘夫人と阿斗は劉備玄徳の部下に助けられて一命をとりとめています。

劉備玄徳は自分の家族を捨てて逃げようとしたということで、

部下から厳しく叱責されたというエピソードも残っています。

このようなエピソードもありますが、劉備玄徳に関して残っている記述は、彼がいかに人徳のある人物かを示すものがほとんどです。

劉備玄徳は多くの信頼できる優秀な部下に支えられて、

天下を統一した人徳のある皇帝でした。

彼の人徳が功を成して多くの部下が劉備玄徳を守るために働いたため、

蜀漢の初代皇帝まで昇りつめることができたのです。

劉備玄徳の人柄は、彼が日頃から意識していたことにも表れています。

 

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劉備の最期

劉備玄徳は亡くなる前に諸葛孔明と自分の息子で次の皇帝の劉禅、次男の劉永に遺言を残しています。

その遺言は、

「諸葛孔明の政治の才能はとても優れているから、国もしっかり安定させることができる。

もしも劉禅が皇帝としての素質を持ち合わせているのであれば、

劉禅をしっかり補佐して欲しい。

だが劉禅が補佐しきれないのであれば、諸葛孔明が皇帝になって国を治めて欲しい。」

というものでした。

これを聞いた諸葛孔明はとても感動しました。

劉備玄徳は亡くなる直前まで国の安定に気を配り続けた、とても立派な皇帝だったのです。

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劉備玄徳にまつわるエピソードや伝説

劉備玄徳の幼い頃と、若い頃のエピソードを3つ紹介します。

幼い頃から天子に対して憧れを持っていた

劉備玄徳の父は管理を務めていましたが、

劉備玄徳が幼い頃に亡くなってしまいました。

そのため、劉備玄徳は皇帝の血を引き継ぐ家系の長男でありながら、

母と共に家計を助けるために働いていたようです。

劉備玄徳には皇帝に対する憧れがあったようで、

「 大きくなったら天子が乗っているような馬車に乗りたい。 」

と言っていたことがありました。

それを聞いた劉備玄徳の叔父は、

「 そんなことを言うものではない。誰か他の人に聞かれたら、一族全員が殺されてしまうぞ 。」

と慌てて注意したそうです。

このエピソードから、劉備玄徳は幼い頃から天子に対する憧れを持っていたということが分かります。

若い頃から身分の低い人たちのことを大切にした

191年に袁紹が率いる軍と戦って戦功を立てたときに、

劉備玄徳は公孫瓚(こうそんさん)に推薦されて、

平原県で地位を得て、後に平原国の相になります。

劉備玄徳が袁紹が率いる軍と戦って戦功を立てたのは、わずか31歳の時でした。

平原県で地位を得た劉備玄徳は、

その土地で賊の侵入を防ぎ、その土地に住む住民に経済的な恩恵をしっかり与え、

さらに身分を低い人物でも差別をせずに平等に扱ったため、多くの民衆から好かれていました。

若い頃から劉備玄徳は、多くの人々から人徳者として信頼を集めて見方を増やしていたということが分かります。

若い頃から身分の低い人にも平等に接してきた劉備玄徳は、

自分が培った人脈と信頼関係のおかげで多くの場所で味方を増やしていきます。

人柄で暗殺から逃れる

平原に住む劉平は、劉備玄徳の配下になることを不愉快に思っていました。

そのため、劉平は劉備玄徳のもとに刺客を派遣しました。

劉備玄徳は自分のもとを訪れた人物が刺客だということには気付かず、とても手厚く彼をもてなします。

手厚い歓待を受けた刺客は劉備玄徳を暗殺することが忍びなくなってしまい、

自ら自分の任務を劉備玄徳に伝えて帰っていきました。

暗殺される危険があったときも劉備玄徳は人徳のおかげで難を逃れていたのです。

 

自ら手本を示す人物

劉備玄徳はとても優しく優れた人物として知られており、

祖先の劉邦と同じく部下の意見をきちんと聞き入れる技量を持った人物でした。

「 他の人の上に立つためには、自ら手本を示すべきだ。 」

ということを劉備玄徳は意識していて、

諸葛孔明が彼の軍師となったのも、劉備玄徳の人柄に感動したからでした。

また、関羽や張飛などの優秀ですが少々荒っぽい部下達から信頼され、

最後まで彼らが劉備玄徳に忠実に仕えていたことからも、

優れた人物像を想像することができます。

 

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きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

劉備玄徳についていかがでしたでしょうか。

劉備玄徳とは?

① 蜀漢の初代皇帝

② 諸葛孔明、関羽、張飛などの優秀な部下たちに恵まれた

③ 誰にでも優しく接することができる人徳者

と言えるのではないでしょうか。

その他にも劉備玄徳にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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