大岡越前こと大岡忠相といえば”名裁き(めいさばき)”!
と言いたいところですが、残念ながら、そのほとんどは創作といわれております。
ただ、大岡忠相は裁判よりは政治の方で大変な成果を出した人です。
そんな大岡忠相の人生と主に政治に関する成果についてまとめました。
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大岡忠相はどんな人?
- 出身地:江戸(現在の東京都)
- 生年月日:1677年
- 死亡年月日:1752年2月3日(享年75才)
- 江戸時代の役人、政治家。享保の改革に活躍
大岡忠相の年表
1677年(0才)大岡忠相生まれる
1716年(39才)大岡忠相、普請奉行となる
1717年(40才)大岡忠相、江戸南町奉行となる
この頃、大岡忠相、享保の改革に携わり、町代の廃止。町火消の整備。小石川養生所の整備などに次々取り組む
1748年(71才)大岡忠相、西大平藩主となる
1752年(75才)大岡忠相、亡くなる
大岡忠相、コツコツ出世の道!
大岡忠相は1700石の旗本大岡忠高の四男として生まれました。
9才で本家大岡忠真の養子に入り、その娘と婚約します。
早っ!!
10才で時の将軍徳川綱吉に初お目見え。
ですが、19才の時に従兄が殺人事件を起こしてしまいます。
忠相はその一族ということで連座して”閉門”処置。
ただ、それは翌年には許され、23才には大岡本家の当主となります。
25才に幕府の書院番に任命され、ここから少しづつ出世街道を歩んでゆきます。
山田奉行→普請奉行→江戸南町奉行
そんな時にあの徳川吉宗が将軍に就任し、いよいよ忠相の大活躍が始まります。
享保の改革と大岡忠相の政策
統治組織をスリム化
時は「享保の改革」です。
そのスローガンの一つは
「無駄遣いやめろ!」
ですね。
町火消の整備
忠「火事は江戸の華だって。冗談じゃない」
忠相は当時の消防隊である町火消を整備し、街づくりなどにおいても防火対策に入念に気を配りました。
小石川養生所の設置
当時多くの人が集まる江戸には貧しい人の数も増えておりました。
そこで、幕府から
「こういった人々のための病院を造れ」
と命ぜられ、
小石川養生所を造りました。
貧しい人々を無料で診てくれていたようです。
サツマイモ栽培を助成
当時の主食はどうしても”コメ”。
でも、ひとつのものにたよりすぎると、何か起こった時、大変なことになってしまいます。
そこで、西日本では「いざ飢饉」の時の備えとして知られつつあったサツマイモに注目。
甘藷(サツマイモのこと)先生こと青木昆陽先生をお呼びして、研究に没頭していただきました。
そんな折、あの享保の大飢饉が起こってしまいました。
本当はもう少し早ければよかったのですが、これをきっかけにしてどんどん普及してゆきました。
幸い、あの天明の大飢饉の時では多くの人の命を救ったようです。
この時代の飢饉というのは本当に人が飢えて死んでしまうんですよ。
大岡忠相、旗本から大名へ!
ほかにも株仲間の公認だとか、公事方御定書の改訂だとか。
引っ張りだこの大いそがしですよ。
そして、とうとう71才の時、それまでの功績が認められて幕府から三河国西大平藩(現在の愛知県岡崎市)一万石の大名に抜擢していただきました。
一介の旗本から。
しかも、町奉行から大名になったのは270年ともいう長い江戸時代の歴史の中で忠相ただ一人ですからね。
そして、その4年後、忠相は自宅療養の末、息を引き取りました。
享年75でございます。
きょうのまとめ
実にトントン拍子の出世ストーリー。
人生ゲームならこんな理想的展開はございません。
そんな忠相の生前の名言。
「松が枝の 直ぐなる心 保ちたし 柳の糸の なべて世の中」
世の中は柳のように揺れ動いているが、私は松の枝のようにどっしりといたい。
この実直さが世の荒海を渡ってゆくための意外な秘訣だったのでしょうか。
① 大岡忠相は旗本から地道に出世を続けた
② 大岡忠相は町火消の整備や小石川養生所の設立、サツマイモの栽培助成など、享保の改革の実施に並々ならぬ功績があった
③ 大岡忠相は江戸時代町奉行出身としてただ一人の大名となった
こうして彼の実際の人となりをおさえてゆけば、
ドラマで見る「 大岡裁き 」がまたちょっと違った視点から見えてくるかもしれません。
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