美人の代名詞として、「○○小町」と言うことがあります。
これは平安時代の歌人・小野小町に由来していることは、言うまでもないでしょう。
ですが小野小町は、本当に美人だったのでしょうか?
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美人・小野小町はあくまでも伝説
小野小町といえば、「絶世の美女」となぜか相場が決まっています。
ですが実は、小野小町がどんな顔をしていたのか、知る手掛かりは今のところありません。
小野小町が美人というのは、あくまでも伝説だったというのです。
その伝説の始まりは、紀貫之が記した『古今和歌集』の序文だったと言われています。
紀貫之はその中で、「衣通姫(そとおりひめ)の流(りゅう)なり」と小野小町を評しました。
衣通姫とは衣を通しても輝くほどの美しさであったという、伝説的な美女。
允恭(いんぎょう)天皇(※)の妃だったと伝えられる人物です。
※5世紀頃に在位した、第19代天皇。仁徳天皇の子とされています。
この文章を、小野小町はそんな絶世の美女の流れ(系統)である、と人びとは解釈。
これが小野小町美人伝説に繋がっていったと考えられています。
女は顔より教養が大切だった
そもそも、美人とはどういう人を言うのでしょうか。
平安時代の美人の条件は一般的に、
- 黒髪
- 白い肌
- 下ぶくれ
- 細い目
- おちょぼ口
- 小さい鼻
などと言われています。
好みにもよりますが、今の美人とは少し違っているように思えますね……。
そんなことはともかく、平安時代の女性は顔よりも大切なものがありました。
それは教養です。
当時の美人の条件は見た目よりも、教養が重視されていました。
というのも平安貴族の女性は一定の年齢になると、身内であっても男性に顔を見せなかったからです。
そこで男性たちは噂や評判などを頼りに、顔を見たことのない相手に恋をしていました。
顔を見せられない女性たちがどのようにアピールしていたかというと、和歌でした。
和歌を手紙にしたためることが、自分を表現する唯一の方法だったのです。
となると、センスの高い歌や美しい字などが求められますよね。
そこで当時の女性たちは、必死に教養を身に付けたと言われています。
きょうのまとめ
今回は絶世の美女と言われる小野小町の顔について、紹介しました。
② 小野小町が美人と言われるようになったのは、紀貫之の書いた文章がきっかけである
③ 平安貴族の女性は、見た目よりも教養が重視された
この他にも、小野小町にまつわる記事をわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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