剣豪ひしめく新選組にあって、
誰より「剣の天才」の呼び名に相応しいのは、この人物。
沖田総司とはどんな人物だったのでしょうか。
タップでお好きな項目へ:目次
沖田総司はどんな人?
- 出身地:江戸
- 生年月日:1842年、1844年、1845年?
- 死亡年月日:1868年5月30日(享年25歳/生年1844年として)
- 新選組での役職:副長助勤、一番隊組長、撃剣師範、小銃頭
- 剣の流派:天然理心流免許皆伝、北辰一刀流免許皆伝
- 愛刀:加州清光、大和守安定
- 墓:東京都港区専称寺
- 近藤勇を慕い、彼への忠義のために戦った新選組一番隊組長。数々の修羅場をくぐり抜けた剣の天才だったが、病に没した
沖田総司 年表
西暦(年齢) (生年1844年の場合)
1844年(1歳)奥州白河藩阿部家江戸藩邸にて、沖田勝次郎嫡男として誕生
1863年(20歳)浪士隊として上洛、八月十八日の政変に出動、新選組誕生、芹沢鴨暗殺
1864年(21歳)与力内山彦次郎暗殺、池田屋事件、禁門の変
1865年(22歳)山南敬助切腹の介錯を務める
1868年(25歳)幕府軍艦富士山丸で江戸へ向かい、江戸で療養、市ヶ谷にて死没
沖田総司の生涯
幼くして両親を亡くし、沖田家は姉おみつが婿を取って後を継ぎました。
長男だった総司は家を出て、9歳頃には江戸市谷の天然理心流道場・試衛館の内弟子となりました。
全ては近藤勇への忠誠のため
沖田は試衛館で近藤勇、土方歳三らと同門です。
若くして塾頭を務め、近藤勇は優秀な沖田にいずれ試衛館を引き継がせたかったようです。
1863年、浪士組結成に参加して上洛。
近藤・土方らと共に新選組を結成。
沖田の一番隊は、新選組の中でも特に危険で重要な任務をこなしました。
沖田個人が人を斬った初めての記録は1863年。
壬生浪士組で近藤勇と確執のあった殿内義雄の暗殺です。
政治的な強い考えを持たず、ただ近藤勇への忠心のために黙々と職務を遂行したのが沖田。
新選組には、芹沢鴨暗殺、大坂与力・内山彦次郎暗殺など公にできない暗殺剣として彼の存在が欠かせませんでした。
死の影
1864年の池田屋事件では20数名の尊攘派に対して、近藤、永倉、藤堂と共に沖田が獅子奮迅の活躍。
しかし、彼は途中で昏倒して戦闘不能になりました。
現在ではこれは新選組ドラマにあるような喀血ではなく、真夏に閉所で繰り広げられた乱闘の熱気による熱中症か、極度の脱水症状のせいではないかと言われています。
1865年2月、総長・山南敬助の脱走の際は、彼を兄のように慕った沖田が追っ手となり、近江草津で山南を発見します。
のち山南は沖田の介錯で切腹しました。
1867年秋頃から、結核の症状が顕著になり、鳥羽伏見の戦い以降の戦闘には不参加。
病状は悪化し、江戸へ移ってから幕府御典医・松本良順の手配で、千駄ヶ谷の植木屋にて療養生活を送りました。
1868年に死去。
享年は24~27と考えられています。
猛者の剣
沖田の得意技とされるのが三段突き。
踏み込みの足音が一度しか鳴らず、相手が一突きされたと思った瞬間には既に三度突かれているという必殺技です。
彼の剣へのさまざまなコメントは、肯定的であれ否定的であれ、沖田の天才性を示しています。
「天才的剣法者」
「近藤の一弟子」
「無闇に人を斬殺致しますので」
「必ず名人に至るべき人なり」
等々。
同僚の永倉新八は
「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子ども扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」
と述べ沖田は猛者の剣と評しました。
多くの実戦での沖田を見た永倉ならではの言葉です。
沖田の人物像
近藤に「総司、総司」と呼ばれた沖田。
背が高くて肩幅のある色黒の青年は、凄腕の一番組長としての顔とは裏腹に、いつも冗談を言っては笑っていました。
近所の子守や、子供を相手に、往来や壬生寺の境内で駆け回り、稽古の時間になると呼びに来る井上源三郎に文句を言っていた可愛げのある人物です。
近藤・土方などへの酷評で知られる西本願寺の西村兼文ですら、沖田には批判を残していません。
芹沢鴨が新選組に在籍した当時、彼の宿泊場所は新選組屯所であった壬生村の八木源之丞宅。
そして、芹沢が暗殺され絶命したのは、なんとその八木家の二人の子供たちが眠る足元でした。
後に、乱闘の際に刀で眠っていた勇之助という少年の足に怪我をさせたことを知った沖田は、主人の八木源之丞に
と気の毒そうに言ったそうです。
自分たちの仕業とは言えず、子供好きの沖田としては心苦しかったことでしょう。
しかし、沖田は稽古の時は非常に厳しく、短気でした。
多くの隊士たちは、沖田と稽古をするのが苦手だったようです。
沖田の恋
沖田によく遊んでもらった八木為三郎は、彼が酒は呑んだが女遊びはしなかったようだ、と証言しています。
江戸にいた頃、近藤勇の養女のコウに結婚を迫られ、
沖田は
と断わったそう。
自分を恥じたコウはのどを突いて自害を図りましたが、一命をとりとめ、他家へと嫁ぎました。
そんな強烈な体験は、沖田を女性に対し億劫にさせたかもしれません。
沖田は京で医者の娘と恋仲になりましたが、近藤勇は沖田に訓戒してその娘と手を切らせています。
沖田は近藤とその周辺の者には彼女について語ることがあり
「普段無駄口ばかり利いている男が、この娘のこととなると涙を落として語った」そうです。
二人が別れた理由は分かっていません。
その他には、旅館里茂の娘・きんや、池田屋事件後に隊士の看護をした石井秩など、沖田を巡る恋の話しはいくつかあるようです。
壬生の屯所近くの光縁寺にある「沖田氏縁者」とされる墓は、沖田総司に関わる女性のものではないかと言われています。
沖田の死
彼の結核の病状が深刻になったのは1867年秋頃からです。
新選組と共に江戸へ向かい、江戸の植木屋平五郎宅で療養をしていた沖田を、1868年3月に甲陽鎮撫隊が出陣する前の近藤が見舞いに来ました。
病床にあっても明るい沖田が、この時ばかりは声を上げて泣いたそうです。
のちの近藤斬首の死を知らされず、沖田は死の間際まで師を気遣っていました。
一方、土方歳三は函館へ発つ前に沖田を見舞い、句を詠んだといいます。
(その清き心は、水鏡に写したように同じ志を持っている)
そして答えた沖田の句。
(戦えないなら私(花)と土方副長(水)は遠く隔たってしまいます)
これが沖田の辞世の句となりました。
享年25(24、27歳の説も)。
きょうのまとめ
沖田総司についていかがでしたでしょうか。
沖田総司とは?
簡単にまとめると
① 剣豪集まる新選組のトップチーム・一番隊の組長
② 政治的思想を持たず、近藤勇への忠義のために剣を振るった天才
③ 冗談ばかり言う明るく子供好きの青年
④ 死線をくぐり抜けながらも最後は病に力尽きた薄命の新選組隊士
と言えるのではないでしょうか。
その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
関連記事 >>>> 「土方歳三はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
関連記事 >>>> 「近藤勇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
その他の人物はこちら
江戸時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【江戸時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」