野口英世とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

千円札の肖像としても、日本人にはお馴染みの

野口英世

ノーベル賞候補にもなり、世界的にも有名な細菌学者でした。

ですが、彼がどのような生涯を歩んできたのか、説明できる方も少ないのではないでしょうか。

そこで今回は、野口英世とはどんな人物だったのか、

簡単にご紹介していきます。

 

野口英世はどんな人?

プロフィール
野口英世

出典:Wikipedia

  • 出身地:福島県三ツ和村三城潟(現在の福島県猪苗代町)
  • 生年月日:1876年11月9日
  • 死亡年月日:1928年5月21日(享年53歳)
  • 細菌学者。黄熱病の研究中、感染して西アフリカで死亡した。

 

野口英世 年表

年表

西暦(年齢)

1876年(1歳)福島県三ツ和村三城潟の農家の長男として誕生(元の名は清作)。

1878年(3歳)左手に大やけどを負う。

1892年(17歳)会陽医院・渡部鼎わたなべかなえの手術を受ける。

1893年(18歳)会陽医院の書生となる。

1896年(21歳)医術開業前期試験に合格する。

1897年(22歳)医術開業後期試験合格、医師の資格を得る。

1898年(23歳)英世と改名する。

1900年(25歳)渡米

1901年(26歳)毒蛇の研究

1903年(28歳)デンマーク留学

1904年(29歳)ロックフェラー医学研究所に入る。

1911年(36歳)梅毒スピロヘータの純粋培養に成功する。

1912年(37歳)母親・シカからの手紙が届く。

1914年(39歳)ノーベル賞候補となる(1回目)。

1915年(40歳)ノーベル賞候補となる(2回目)。一時帰国し、再び渡米。

1918年(43歳)エクアドルで黄熱病の病原体を発見する。母親死去。

1920年(45歳)ノーベル賞候補となる(3回目)。

1928年(53歳)西アフリカのアクラ(現在のガーナ共和国)で永眠。

 

貧農に生まれるも猛勉強 研究に身を捧げる

野口英世は明治9年(1876)、現在の福島県猪苗代町の貧農の長男として誕生しました。

元の名は英世ではなく、清作(以下、改名まで清作とします)といいました。

左手の大やけどが人生を変えた

野口は赤ん坊の頃、母親のシカが目を離している隙に、いろりに落ちてしまったことがあります。

それが原因で清作の左手はこぶのようになり、指は開かなくなってしまったのです。

母のシカは、清作が将来学問で身を立てられるよう、教育費を稼ぐために身を粉にして働きます。

当の本人も猛勉強し、小学校では大変優秀な成績を修めました。

さらには高等小学校在学中、恩師や友人たちの援助を得て左手を手術

すると清作の指は切り離され、少しだけ動くようになったのです。

そのとき医学の素晴らしさに感動した清作は、医師を目指すことを決めました。

猛烈なスピードで医術開業試験に合格

高等小学校卒業後、清作は手術を受けた会津若松の会陽医院に書生として入ります。

そして1869年、医術開業試験を受験するために上京。

試験は前期・後期とあり、これらをパスするのにはおよそ10年かかるといわれていたとか。

ですが清作は、わずか1年あまりで合格し、医師の資格を得たのです。

晴れて医師となった清作は、高山歯科医学院や伝染病研究所、横浜海港検疫所などで働きます。

清作から英世(ここからは英世とします)に改名したのもこの頃です。

その理由は後ほどご紹介しますね。

渡米し研究が評価される

その後、清(現在の中国)でも働いていましたが、研究者となるために渡米。

ペンシルベニア大学・フレキスナー博士の助手となり、毒蛇の研究に没頭します。

そしてその研究が評価されると、デンマークに留学。

ここでは国立血清学研究所・マッセン博士のもとで、細菌学を学んでいます。

再びアメリカに戻ると、ロックフェラー医学研究所に入りました。

すると梅毒スピロヘータの研究が世界的に認められ、ノーベル生理学・医学賞の候補にもなっています。

さらにこの頃、メリー・ダージスというアメリカ人女性と結婚しました。

母・シカのために一時帰国

幼い頃、母親が願ったように、学問の分野で成功した野口英世。

そのため生活は多忙を極め、日本にはなかなか帰る時間などありませんでした。

そこで母のシカは、手紙で息子の帰国を懇願しています。

それを受け取った英世は、およそ15年ぶりに日本へ帰国。

年老いたシカに親孝行をして過ごしますが、これが英世本人にとっても、日本の地を踏んだ最後の時間でした。

黄熱病により西アフリカで死亡

再び渡米した英世は、腸チフスにかかり危篤状態に。

無事回復すると、黄熱病の研究に携わることになりました。

そして南米のエクアドルへ赴くと、わずか9日で病原体を発見しています。

実はこの病原体、黄熱病のものではなかったのです。

詳しくは、下記の記事をお読みください。

関連記事 >>>> 「野口英世の黄熱病研究の本当のところ」

またこの頃、母親のシカが亡くなっています。

その後も黄熱病などの研究に尽力。

そしてあるとき、研究所の同僚であったストークスがアフリカで黄熱病にかかり、亡くなったという知らせを受けます。

これを機に英世は、自身も西アフリカへと赴き、黄熱病の研究を続けます。

しかし、自らも黄熱病にかかり、アクラ(現在のガーナ)で命を落としました。

まだ50代という若さでした。

野口英世にまつわるエピソード

それでは上記にまとめきれなかった、有名な野口英世にまつわる逸話をご紹介していきますね。

英世に改名した意外な理由

上述した通り、清作から英世へと名前を変えています。

その理由は、坪内逍遥つぼうちしょうようの小説『当世書生気質とうせいしょせいかたぎ』にありました。

そこには登場人物である「野々口精作」という医学生の、堕落していく様が書かれていたのです。

この作品を呼んだ清作は、なんだか自分のことが書かれているようで嫌になったといいます。

当時の清作は、恩師から受け取ったお金のほとんどを酒・女・ギャンブルに使うという、自堕落な生活を送っていたからです。

名前も欠点も似ている……ということで、英世と改名したのだとか。

ただこちらの作品の野々口精作、野口清作をモデルに書かれたわけではないようですよ。

結局お金のためだった?婚約破棄

野口英世は、アメリカ人女性と結婚したとご紹介しました。

ですが実は、日本人女性と婚約していたことがあるのです。

その女性は斉藤ます子という、医師を志していた女学生でした。

ます子の実家はお金持ちで、アメリカ留学の費用を出してくれるという話に。

そのときの野口は、当然ながらまだ無名。

帰国したら結婚するという約束をし、現在の数百万から1,000万円ともいわれる大金を手に入れます。

そのお金で、さぞ立派な研究をしてくれると思いきや、なんと芸者遊びに使ってしまいます。

結局、血脇守之助という恩師に借金をして留学するのですが、結婚もする気はありませんでした。

ます子やその父親から結婚の催促の手紙が届いても、英世は適当にかわし続けました。

結局、この婚約はなかったことに

またもや血脇の力を借り、婚約持参金を斎藤家に返したそうです。

これって、結婚詐欺なのでは……?

そして、こんな野口英世を見捨てなかった血脇さんもすごいです。

 

きょうのまとめ

今回は野口英世の生涯について簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

野口英世とは?

① 幼少期の大やけどが、野口英世の人生に大きな影響を与えた

② 野口清作から野口英世に改名した理由は、坪内逍遥の小説『当世書生気質』だった

③ 野口英世は若い頃、結婚詐欺のようなことをしていた

こちらのサイトでは他にも、科学の分野で活躍した人物についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

関連記事 >>>> 「野口英世は左手にやけどをしていなければ農家を継いでいた?」

関連記事 >>>> 「野口英世の名言の意味とそれを裏付ける努力とは?」

関連記事 >>>> 「野口英世の母親が書いた手紙が泣かせる!シカの生涯とあわせて説明」

 

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関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










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