原敬とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「平民宰相」と世間からもてはやされるも、一人の平民の青年に殺されてしまった

原敬

彼は一体、どんな人物だったのでしょうか。

実は「平民」で始まったわけではない、原敬の生涯について簡単に紹介します。

 

原敬はどんな人?

プロフィール
原敬

出典:Wikipedia

  • 出身地:岩手郡本宮村(現在の岩手県盛岡市本宮)
  • 生年月日:1856年3月11日
  • 死亡年月日:1921年11月4日(享年66歳)
  • 第19代内閣総理大臣。日本初の本格的政党内閣を組織した「平民宰相」。

 

原敬 年表

年表

西暦(年齢)

1856年(1歳)現在の岩手県盛岡市に生まれる。(幼名、健次郎)

1871年(16歳)上京

1875年(20歳)実家から分家し、平民になる。

1876年(21歳)司法省学校入学

1879年(24歳)司法省学校を退学。郵便報知新聞に入社。

1882年(27歳)郵便報知新聞退社。外務省御用掛となる。

1895年(40歳)外務次官となる。

1898年(43歳)大阪毎日新聞の社長に就任する。

1900年(45歳)立憲政友会の初代幹事長、第4次伊藤博文内閣逓信大臣。

1902年(47歳)衆議院議員に当選する。

1906年(51歳)第1次西園寺公望内閣内務大臣に就任。

1911年(56歳)第2次西園寺公望内閣内務大臣に就任。

1913年(58歳)第1次山本権兵衛内閣内務大臣に就任。

1914年(59歳)立憲政友会第3代総裁に就任。

1918年(63歳)第19代内閣内務大臣に就任。

1919年(64歳)改正衆議院議員選挙法公布

1921年(66歳)東京駅で暗殺される。

 

藩閥から政党政治へ「平民宰相」の生涯

原敬は幕末、盛岡藩士・原直治の次男として誕生しました。

原家は盛岡藩の家老格という家柄。

のちに「平民宰相」といわれた原でしたが、もとは上級武士の出身だったのです。

明治維新

しかし、明治維新が原の人生を大きく変えます。

戊辰戦争では薩長ら新政府軍が「官軍」となり、盛岡藩はそれに抵抗したため「賊軍」となりました。

藩士たちは没落、原家も貧しい生活を強いられることになります。

このときの経験が、原敬の人生に大きな影響を及ぼしたと言って良いでしょう。

 

やがて原は勉強するために上京。

紆余曲折あった後、司法省法学校へ入学します。

しかし寄宿舎の食事問題が原因で、学校側と対立

ついには退学処分を受けてしまいます。

その後は新聞記者を経て、外務省に入りました。

官僚の世界へ

外交官として経験を積みますが、一時期は農商務省に転じたこともありました。

この時期出会ったのが、陸奥宗光農商務大臣です。

陸奥宗光は原同様、薩長出身者ではありませんでした。

そして陸奥は藩閥政府の中でうまく立ち回ることによって、自らの理想を実現しようと考えていたのです。

原はそんな陸奥を生涯の師と仰ぎます。

陸奥が外務大臣となると、原も外務省に復帰したほどです。

 

その後、外務次官も務めた原でしたが、外務省を辞めて再び新聞社へと戻ります。

大阪毎日新聞の社長に就任すると、発行部数を大幅に伸ばすことに成功。

そんな原敬の才能に目を付けたのが伊藤博文でした。

政界進出

当時の伊藤博文は、立憲政友会を立ち上げるために動いていました。

そんな伊藤の説得により、原は政界入りを決意。

立憲政友会に参加し、衆議院議員となりました。

 

西園寺内閣や山本権兵衛内閣では、内務大臣を務めます。

この時代、警察を内相の下においたり、知事を罷免ひめんしたりするなどして、藩閥の力を弱めていきました。

やがて第3代総裁となり、ついに内閣総理大臣の座に就きます。

そして日本初の、本格的な(1898年に成立した初の政党内閣・隈板わいはん内閣は、わずか4カ月で崩壊しています。)政党内閣をスタートさせました。

原敬内閣は「四大政綱」

(1)教育の充実

(2)交通・通信機関の整備

(3)産業の奨励

(4)国防の充実

という政策を掲げ、日本の国際競争力を高めようとしました。

鉄道や学校を誘致したい地方が立憲政友会を支持・献金を行ったため、「我田引鉄」という言葉も生まれます。

 

さらに選挙法を改正しますが、普通選挙の導入は行っていません。

選挙で圧倒的勝利を飾った立憲政友会の力を背景に、原は強硬政策にも打って出ます。

そんな原敬内閣には反感を持つ人も多く、総理在任中、東京駅で刺殺されました。

享年66歳でした。

 

原敬にまつわるエピソード

それでは原敬にまつわるエピソードを2つほど、ご紹介していきます。

キリスト教の洗礼を受けていた

学問のために上京した原でしたが、当初はお金に苦労していました。

実家に泥棒が入って仕送りがストップし、通っていた学校を退学したこともあったとか。

 

そんな中、原が入学したのが麴町にあったマリン神学校。

入った理由は学費・食費が無料だったからだそうです。

ですが在学中には洗礼を受け、ダビデという洗礼名も持っていました。

その後は熱心にキリスト教を信仰していたわけではないようですが、原敬がクリスチャンだったとは意外ですね。

「賀正」の発案者だった

年賀状などで見かける「賀正」

古くから使われている言葉と思いきや、発案したのはなんと原敬だったのです。

原は簡単な表現を好む人で、新聞社にいた頃もなるべく漢字を少なくするという改革を行っています。

 

正月を賀する(=祝う)を簡単にして「賀正」、確かにこれで意味は通じますもんね。

これを役人たちも真似し始め、今日でも一般的に使われる言葉になりました。

こう考えると、原敬になら「あけおめ」を使っても、いいねと言ってくれるかも!?

 

きょうのまとめ

今回は「平民宰相」こと原敬の生涯について、簡単にご紹介しました。

原敬とは?

① 士族に生まれるも、明治維新がきっかけでアンチ薩長(藩閥)になった

② 藩閥政治を倒し、日本初の本格的政党政治を行った

③ 政治のやり方に反感を持つ人も多く、在任中に暗殺された

④ キリスト教の洗礼を受けたり、「賀正」の発案をしたりと、意外な面もあった

こちらのサイトでは他にも、歴代の総理大臣についてわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!

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