平塚らいてうとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

今や世界では、女性のリーダーという存在も珍しくなりましたよね。

そんな今だからこそ、注目を浴びている女性がいます。

封建的な考えが根強く残っていた時代に、女性解放運動の先駆者となった

平塚らいてうです。

それでは、平塚らいてうとはどんな人物だったのでしょうか。

今回は彼女の生涯について、簡単にご紹介していきます。

 

平塚らいてうはどんな人?

プロフィール
  • 出身地: 東京府東京市麹町区(現在の千代田区)
  • 生年月日: 1886年2月10日
  • 死亡年月日: 1971年5月24日(享年 86歳)
  • 明治から昭和にかけて活躍した作家、思想家。女性解放運動の先駆者として有名。

 

平塚らいてう 年表

年表

西暦(年齢)

1886年(1歳)現在の東京都千代田区に生まれる。(本名、明/はる)

1903年(18歳)日本女子大学校家政科入学

1906年(21歳)日本女子大学家政科卒業

1907年(22歳)閨秀文学会に参加

1908年(23歳)心中未遂事件を起こす。

1911年(26歳)青鞜社設立、雑誌『青鞜』創刊。

1914年(29歳)奥村博史と同棲を始める。

1916年(31歳)『青鞜』休刊となる。

1918年(33歳)母性保護論争

1920年(35歳)新婦人協会の結成

1953年(68歳)日本婦人団体連合会の結成

1962年(77歳)新日本婦人の会結成

1971年(86歳)死去

 

「新しい女」としての生涯

平塚らいてうは明治19年(1886)、現在の東京都千代田区に生まれました。

本名は明(はる)といいます。

らいてうの生まれた家は裕福な家庭で、父親は政府の高級官吏(かんり)でした。

先祖は関ヶ原の戦いで亡くなった西軍の武将・平塚為広といわれています。

従来の教育への失望

成瀬仁蔵の著書『女子教育』に感銘を受け、日本女子大学校(現在の日本女子大学)に入学した平塚らいてう。

しかし、そこでの良妻賢母教育に失望し、哲学・宗教などに没頭することになります。

 

日本女子大学校卒業後は英語を学び、生田長江(いくた・ちょうこう)と出会います。

生田の主宰する文学講座「閨秀(けいしゅう)文学会」に参加していたらいてうは、生田のすすめで小説『愛の末日』を書き上げました。

 

また、閨秀文学会では講師を務めていた森田草平という人物と出会います。

後述しますが、森田とらいてうは心中未遂事件を起こしています。

青鞜社の設立

その後、またも生田の強いすすめにより、らいてうは青鞜社を設立し、雑誌『青鞜』を創刊します。

資金はらいてうの母親が貯めていた、らいてうのための結婚資金だったといいます。

『青鞜』の創刊号は賛否両論ありましたが、大きな反響を呼びました。

 

関連記事 >>>> 「平塚らいてうの有名な名言の意味とは?当時の時代背景を簡単に説明」

 

『青鞜』は当時の一般的な常識からすると、かなり急進的な内容でした。

「新しい女」という、従来の女性の理想像であった「良妻賢母」否定する立場を取ったからです。

そのため青鞜社のメンバーの言動がマスコミによって、スキャンダラスに取り上げられることもしばしばありました。

 

そんな頃、平塚らいてうは5歳年下の男性・奥村博史と出会います。

やがて奥村との同棲生活を始めますが、籍は入れず、事実婚状態に。

その後二人の間には、男児・女児が一人ずつ生まれています。

 

家庭生活との両立が難しくなったらいてうは、伊藤野枝という人物に『青鞜』の運営を任せます。

しかし、その後も青鞜社メンバーには様々な問題があり、『青鞜』は休刊となりました。

関連記事 >>>> 「平塚らいてうが設立した青鞜社はどんな団体だったのか」

母性保護論争・新婦人協会の設立

その後らいてうは、女性誌『婦人公論』では与謝野晶子と論争を繰り広げ、再び注目されます。

これはいわゆる「母性保護論争」といわれ、母親の地位の保護や生活保障を巡るものでした。

 

そして大正9年(1920)には市川房枝らと新婦人協会を設立。

治安警察法(※)で禁止されていた「女子の政治結社・政治集会禁止」の撤廃などを求めました。

※ 1900年に制定された、社会主義や労働運動を抑えるために定められた法律

その結果、女性が政治集会に参加することが認められます。

晩年も精力的に活動

第二次世界大戦後は、反戦・平和運動にも取り組みます。

例えば水爆の製造・実験などの禁止を訴えたり、ベトナム戦争への反戦活動を行っています。

そして昭和46年(1971)、病気によってこの世を去りました。

 

平塚らいてうにまつわるエピソード

それでは、平塚らいてうにまつわる有名なエピソード「心中未遂事件」についてご紹介します。

塩原心中未遂事件

生田長江のもとで文学に目覚めた平塚らいてう。

彼のすすめで処女小説『愛の末日』を書くと、その作品を高く評価したのが森田草平でした。

それがきっかけで、二人は恋仲になります。

 

森田草平には、すでに妻と子どもがいました。

というわけで、二人は不倫関係にあったということになりますね。

明治41年(1908)の3月、二人は栃木県の塩原温泉へと出かけます。

旅館に泊まり、次の朝、峠へと向かっていった二人。

春とはいえ、まだ雪深い時期に……。

この行動を不審に思った旅館の主人は、駐在へと知らせました。

結局、雪の中をさまよっているところを発見されたらいてうと森田。

雪で疲れ果ててしまい、死ぬために持っていた懐刀を谷底に放り投げていたそうです。

スキャンダルに発展

ですが、この心中未遂事件には続きがあります。

森田は東京帝国大学出身のエリートで、夏目漱石の門下生。

平塚らいてうも高級官吏の娘で、しかも当時としては珍しい女子大卒の才女。

 

そんな二人の心中未遂事件を、マスコミが放っておくわけはありません。

新聞にはあることないことを書かれ、しかもらいてうの顔写真まで掲載されるはめに。

さらに森田はその出来事を小説として発表し、小説家の仲間入りを果たしています。

 

平塚らいてうはそれから3年後、青鞜社を作っています。

ただでは転ばない女だったということですね。

 

きょうのまとめ

今回は平塚らいてうの生涯ついて簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

平塚らいてうとは?

① 裕福な家庭に育ち、大学に進学するも「良妻賢母」教育に失望していた

② 「新しい女」としての生き方を自ら実践、晩年になっても精力的に活動した

③ 既婚男性と心中未遂事件を起こし、スキャンダルとなった

こちらのサイトでは他にも、明治時代に活躍した女性たちについてわかりやすく書いています。

興味をお持ちの方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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