乃木希典とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

名将か愚将か、評価の分かれる陸軍大将

乃木希典のぎまれすけ

乃木希典とはいったいどんな人物だったのでしょうか。

そこで今回は乃木希典の生涯について、簡単にご紹介していきます。

 

乃木希典はどんな人?

プロフィール
乃木希典

出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸・麻布の長州藩邸(現在の東京・六本木)
  • 生年月日:1849年11月11日
  • 死亡年月日:1912年9月13日(享年64歳)
  • 日露戦争で活躍し、国民から絶大な人気を得た軍人。明治天皇をあとを追って殉死した。

 

乃木希典 年表

年表

西暦(年齢)

1849年(1歳)江戸の長州藩邸で生まれる(幼名、無人)。

1858年(10歳)一家で長州へと移る。

1865年(17歳)明倫館に入学する。

1872年(24歳)陸軍少佐となる。

1877年(29歳)西南戦争で軍旗を奪われる。

1887年(39歳)ドイツに留学する(~1888年)

1894年(46歳)日清戦争に参戦する。

1896年(48歳)台湾総督となる。

1904年(56歳)陸軍大将となる。

1905年(57歳)日露戦争で旅順を陥落させる。

1907年(59歳)学習院院長となる。

1912年(64歳)自刃する。

 

乃木希典の栄光と挫折の人生

長州藩士の息子として生まれた乃木希典。

幕末には、四境戦争(※)に従軍しています。

※1866年の第二次長州征伐を長州ではこう呼びます。「征伐」はあくまでも幕府側からの見方ですね。

陸軍に入る

その後は黒田清隆の推薦によって陸軍に入り、陸軍少佐に任命されます。

これは異例の大抜擢で、周りも乃木本人も驚いたそうです。

西南戦争では歩兵第14連隊長心得として参戦しています。

このとき、連隊旗(=官軍を表す軍旗のこと。天皇の分身と考えられていたくらい大切)を薩摩軍側に奪われるという事件が起こりました。

乃木希典にとって、この出来事は一生悔やまれることでした。

詳しくは下記の記事をお読みください。

転機となったドイツ留学

精神的に弱ってしまった乃木は、次第にお酒に溺れるようになりました。

心配した母親の寿子は、乃木に静子との結婚を薦めます。

しかし乃木はそれでも立ち直らず、子どもができても荒れた生活を続けていました。

そこへ持ち上がったのが、ドイツ留学の話です。

たった1年半の留学でしたが、まるで別人のようになって乃木は帰国します。

ドイツで愛国精神に目覚めて以来、日本軍の範となるために、お酒をあまり飲まなくなったといいます。

日清戦争には歩兵第一旅団長として従軍、旅順を占領しました。

日露戦争では多くの命を犠牲に

そして日露戦争には第三軍司令官として参戦。

情報や物資の不足に悩まされながらも、ロシア側の旅順要塞を半年で陥落させています。

乃木希典の名声を高めた戦いですが、1万人以上の死者を出してしまったのも事実。

さらにその中には、乃木の息子も含まれていました。

乃木希典はこれに責任を感じ、自ら命を断とうとも考えていたようです。

泣きながら訴える乃木に対し明治天皇は、どうしても死にたいというのならちんが死んだらにしなさいという旨を伝えたといいます。

乃木の殉死は、どうやらこれが最大の理由ではなかったのかと言われているほどです。

教育者から軍神へ

その後は明治天皇の命により、乃木は学習院院長に就任。

後の昭和天皇の教育係も務めました。

明治天皇が亡くなり、大喪の礼が行われた夜、乃木は妻・静子とともに自刃します。

二人の死は世間に大きな衝撃を与え、文学作品などにも度々取り上げられています。

絶大な人気を誇った乃木はその後、軍神として乃木神社にお祀りされることとなりました。

 

乃木希典にまつわるエピソード

現在の六本木ヒルズで生まれる

長州藩士・乃木希次まれつぐの三男として誕生した乃木希典。

幼名は無人なきとといいます。

無人が生まれたのは江戸にある長州藩の上屋敷

現在は六本木ヒルズが建っている場所です。

乃木希典は、すごい都会っ子だったんですね!笑

六本木ヒルズには現在も「毛利庭園」があり、長州の名残がうかがえます。

実はこの屋敷、『忠臣蔵』でお馴染みの赤穂浪士ら10名が切腹した場所でもあるのです。

六本木ヒルズを訪れた際にはふとそんなことを思い出してみると、いつもとは違った景色に見えるかもしれません。

若い頃は学者志望だった

陸軍大将として知られる乃木希典ですが、実は若い頃は学者を志していたそうです。

長州出身の学者といえば、吉田松陰が有名ですよね。

松陰が教えた松下村塾は、伊藤博文や山県有朋などを輩出したことで知られています。

そんな松下村塾ですが、開いたのは吉田松陰ではなく、その叔父にあたる玉木文之進という人物です。

若かりし日の乃木は学者を目指すことを父親に反対され、家を飛び出しています。

そこで頼ったのが玉木文之進でした。

ですが父の許しを得ていない乃木の弟子入りを、玉木は一度は拒みます。

しかし、玉木の妻のとりなしによって学問のてほどきを受けられるようになりました。

その後は長州藩の藩校・明倫館にも入学。

最終的には軍人という道を歩んだ乃木ですが、学者の道も開けていたということです。

 

きょうのまとめ

今回は乃木希典の生涯について簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

乃木希典とは?

① 麻布の長州藩邸(現在の六本木ヒルズ)で誕生した

② 学者を志していた若い頃は、松下村塾を開いた玉木文之進に弟子入りしていた

③ 西南戦争で軍旗を奪われ、酒びたりになってしまった

④ ドイツへ留学し、愛国心に目覚めて帰国した

⑤ 日清戦争・日露戦争で活躍し、軍神として乃木神社に祀られた

こちらのサイトでは他にも、乃木希典に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方はぜひご覧になってくださいね!

 
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