土佐藩出身の中岡慎太郎は、薩長同盟を成功させた人物として知られています。
村を、藩を、そして国を救おうと活動した尊皇攘夷志士・中岡慎太郎とはどんな人物だったのでしょうか。
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中岡慎太郎はどんな人?
- 出身地:土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)
- 生年月日:1838年5月6日
- 死亡年月日:1867年12月12日(享年30歳)
- 土佐出身の尊皇攘夷志士。薩長同盟、薩土盟約の締結に尽力したが、近江屋事件で坂本龍馬と共に襲撃され亡くなった。
中岡慎太郎 年表
西暦(年齢)
1838年(1歳)土佐に生まれる
1861年(24歳)武市半平太が結成した土佐勤皇党に加盟し志士活動を始める
1863年(26歳)土佐藩内での尊皇攘夷派大弾圧開始に伴い脱藩。長州藩に亡命
1864年(27歳)薩摩藩の島津久光暗殺を計画するが未遂。禁門の変、下関戦争を長州側として戦う
1866年(29歳)薩長同盟を成功させる
1867年(30歳)土佐藩より脱藩罪を赦免される。薩土盟約の締結を成功させる。陸援隊結成。京の近江屋にて坂本龍馬と共に襲撃され、2日後に死亡
中岡慎太郎の生涯
中岡の生涯はとてもエネルギッシュでした。
自らをなげうって人に尽くし、多くの人々と出会い、議論をし、戦い、そして日本の未来をさがす人生でした。
村の政治から藩、そして日本の政治へ
中岡慎太郎は1838年に土佐の国北川郷(現:高知県安芸郡北川村)に誕生。
大庄屋をしていた父親の小伝次、母親ウシの元に生まれました。
大庄屋の跡継ぎとして教育を受け、村民の生活向上に腐心します。
やがて村の根本的な問題解決のために国政について考えるようになったのです。
学問は土佐藩士・間崎哲馬に、
そして剣術は武市瑞山(通称半平太)に学びました。
1857年の結婚ののち、1861年に武市が結成した土佐勤皇党に加盟すると、本格的に志士活動を開始します。
やがて、長州藩の久坂玄瑞、山県半蔵、そして松代藩の佐久間象山らと交流します。
国政のための脱藩、尊皇攘夷活動
1863年、京都で八月十八日の政変で、幕府の公武合体派が長州藩を中心とした急進的な尊攘派を京都から追放しました。
土佐藩内でも尊王攘夷活動への弾圧が始まると、中岡は速やかに脱藩し、
長州藩に亡命。
そして、長州藩内で脱藩志士たちをまとめ、長州に逃れてきていた尊攘派公卿・三条実美を助け、さらに各地の志士たちとの連絡役として活躍します。
1864年の薩摩藩の島津久光暗殺計画は未遂に終わりましたが、禁門の変、下関戦争でも長州側として戦いました。
尊王攘夷論から雄藩連合、そして武力倒幕へ
中岡は、有力藩同士の対立や長州や志士たちへの弾圧は無益だと考えます。
そして、尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論へと思考を発展させました。
その考えを元に、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)、三条実美に呼びかけ、坂本龍馬や三条の随臣・土方久元を巻き込みます。
そして1866年に京都で薩摩藩と長州藩による薩長同盟を結実させたのです。
翌年、薩摩と土佐の薩土盟約の締結をも成功させました。
多くの人々の間を駆け回った中岡の努力は報われたのです。
陸援隊結成、そして死
中岡慎太郎や坂本龍馬の尽力で、土佐藩は攘夷派の薩摩・長州・肥前藩と並び、幕末・明治を牽引する主要政治勢力となっていきました。
中岡は長州の奇兵隊を参考に陸援隊を結成し、自ら隊長となりました。
また、倒幕と攘夷を説いた政治論文『時勢論』を著わし、理想の国作りへと走り出していたのです。
ところが、1867年、中岡が京都四条の近江屋にいる坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃されてしまいました。
この近江屋事件で、坂本は死亡。
瀕死の重傷を負った中岡も2日後に亡くなったのです。
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中岡慎太郎を偲ぶ
今でも中岡慎太郎を慕う多くの人々が訪れる場所を2ヶ所ご紹介します。
中岡の墓
近江屋事件の後、中岡慎太郎と坂本龍馬の葬儀は、近江屋で行われ、2人は霊山護国神社に埋葬されました。
右に中岡慎太郎、左に坂本龍馬の墓が並びます。
事件で最初に殺害された坂本の下男・山田藤吉の墓も一緒です。
<中岡慎太郎墓所・霊山護国神社:京都市東山区清閑寺霊山町>
中岡の銅像
中岡の故郷、高知の室戸岬に、同郷の彫刻家・本山白雲の製作による中岡の銅像が建っています。
桂浜にある坂本龍馬の銅像も同じ作者によるものです。
<中岡慎太郎像:室戸市室戸岬町>
中岡慎太郎の心に響く名言5選
時に辛抱強く、時に熱くなりながら日本の将来を探していた中岡慎太郎。
そんな彼の言葉をご紹介しましょう。
仲間の死に涙を抱える
1864年、清岡道之助をリーダーとした尊攘派の23名が土佐の北川村野根山に集結し、土佐藩に対し「藩政改革、攘夷、瑞山(武市半平太)の釈放」の嘆願書を提出しました。
しかし、勤皇運動弾圧を実践していた土佐藩は、道之助らを捕縛し処刑。
この「野根山二十三士の悲報」を知った時の中岡の言葉です。
心の中を見る目
中岡から故郷の後輩・北川竹次郎への手紙の一節です。
竹次郎は、人として自分を磨くための学問に専念できないのを理由に、田舎で養子入りして村の政治に関わるのを断っていました。
しかし、「心がけ次第で立派な人物にも小さな人間にもなるのだ」というこの言葉に感動した彼は、後に養子入りしたそうです。
中岡の政治論文『時勢論』より
中岡の政治論文『時勢論』で、人それぞれの技量とやり方で行動することの大切さを説きました。
(土地持ちなら土地を提供し、お金持ちは資金を提供し、元気・勇気があるならその精神力を尽くし、戦略を立てるのが上手い者、一芸に秀でた者はその技を発揮しろ)
国難に際しては、階級に関係なく人々が自分の得意なことを発揮して一体になれば、諸外国とも対等に渡り合っていけるようになると述べたのです。
かつて、故郷の北川郷で大庄屋をしていた頃、饑饉に苦しむ村人たちのために、自分の土地を売った金で芋を購入して配り、土佐藩家老に直談判して藩の米蔵を開かせて彼らを救った中岡。
その心は、志士となっても変わりませんでした。
薩長同盟へ!
(国が繁栄するか滅びるかは、仲間が団結するか否かにある。敵が強いか弱いかは関係ない)
薩長同盟という大事を前に仲間割れしている場合ではない、と長州の木戸孝之に訴えた手紙の一部です。
現代人も納得の真理
(世間の傍観者は、人のあらを探し、失敗を笑う。だがそんな人は、チャンスをつかむことも人の上に立つことも出来ない)
これも木戸孝之への手紙の中の言葉です。
現代の私たちもこの言葉に学ぶところがありそうです。
きょうのまとめ
今回は幕末に尊皇攘夷志士として活躍し、薩長同盟を成功させた立役者・中岡慎太郎をご紹介しました。
中岡慎太郎とは?簡単にまとめると
① 土佐を脱藩し、自由な身で幕末の日本を変えようとした男
② さまざまな立場の人々を説得し、薩長同盟、薩土盟約を締結させた立役者
③ 日本の未来に尽力するも、明治の世を見ることなく志半ばで散った尊皇攘夷志士
でした。
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