陸奥宗光には坂本龍馬暗殺にブチギレて人を襲撃した過去があった

 

明治時代、不平等条約を改正したことで有名な

陸奥宗光

それらの業績が大きいため、どうしても「幕末」時代の彼についてはよく知られていません。

実は陸奥宗光、あの坂本龍馬と関係が深い人物だったのです。

そこで今回は、陸奥宗光と坂本龍馬にまつわるエピソードなどをご紹介していきますね。

 

龍馬とともに過ごした幕末

陸奥宗光が坂本龍馬に出会ったのは、幕末の江戸でした。

陸奥は紀伊(現在の和歌山県)出身ですが学問のため、安政5年(1858)に江戸へ出てきていたのです。

神戸海軍操練所でともに学ぶ

紀伊藩士で国学者でもあった父親の影響もあり、陸奥は尊王攘夷思想を持っていました。

そのため江戸ではのちの木戸孝允や伊藤博文、そして龍馬とも交友を深めていったのです。

その後は幕府の神戸海軍操練所という、海軍の学校で学びます。

こちらは幕臣・勝海舟の建言によってつくられた教育機関で、坂本龍馬は塾頭を務めていました。

そして陸奥宗光も龍馬の推薦により、副長格に引き立ててもらったといいます。

海援隊の一員となる

これだけにとどまらず、それ以後も陸奥宗光は、龍馬と行動をともにします。

亀山社中、その後の海援隊にも参加し、龍馬の右腕として活躍しました。

海援隊とは簡単に説明すると、貿易や海運などを行っていた組織です。

当時の龍馬は陸奥宗光の商いの能力を大変評価していたそうで、

坂本龍馬
刀を二本差さなくても(※)食っていけるのは俺と陸奥だけだ

といったと伝えられています。

刀を二本差していることが、武士の象徴でした。

 

天満屋事件

慶応3年(1867)、坂本龍馬はご存知の通り、京都の近江屋に潜伏していたところを暗殺されます。

今もなお犯人は判明しておらず、歴史のミステリーの一つとなっています。

きっかけは「いろは丸事件」

さて、龍馬暗殺の半年前に起こったという、いろは丸事件をご存じでしょうか。

いろは丸とは、伊予大洲藩から海援隊が借りていた船のことです。

この船は初航海に出た際、瀬戸内海で紀州藩の船・明光丸と衝突して沈没しています。

いろは丸にも過失があったといわれていますが、龍馬や土佐の後藤象二郎らの交渉により、

紀州藩が多額の賠償金を支払うということでこの事件は決着しました。

ですが龍馬たちは交渉が有利に運ぶよう、紀州藩を批判する内容の歌を流行らせたり、積み荷の偽装申告まで行ってたのです。

紀州藩は、そんな龍馬に対して恨みを抱いていたかもしれません。

そしてその賠償金支払からわずか一週間後、龍馬は暗殺されたのです。

龍馬暗殺にブチギレて襲撃

龍馬暗殺を知らされた陸奥たちは、いろは丸事件で龍馬を恨んだ紀州藩こそが事件の黒幕だろうと考えたそうです。

そこで陸奥は海援隊の隊員十数名を連れ、紀州藩士・三浦休太郎きゅうたろうという人物が滞在していた京都の天満屋てんまやを襲撃しています。

このとき三浦側には新撰組の斎藤一たちがついており、三浦の殺害には至らなかったようですが・・・・・・。

現代の私たちにとっては、陸奥宗光といえば巧みな外交術から知的なイメージが強いですが、意外と荒々しい一面もあったのですね。

 

きょうのまとめ

今回は陸奥宗光と坂本龍馬についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

① 陸奥宗光は、神戸海軍操練所・亀山社中・海援隊と、龍馬と行動をともにした
 
② 陸奥は龍馬から商才を高く評価されていた

③ 龍馬暗殺はいろは丸事件の報復だと考えた陸奥たちは、紀州藩士を襲撃した

こちらのサイトでは他にも、陸奥宗光についての記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!

 

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