夏目漱石とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

かつては千円札の肖像にもなり、また学校の授業などでもお馴染みの

夏目漱石

近代日本を代表する文豪・夏目漱石とはどんな人物だったのでしょうか。

今回は夏目漱石の生涯について、簡単にご紹介します。

 

夏目漱石はどんな人?

プロフィール
夏目漱石

出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸・牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)
  • 生年月日:1867年2月9日
  • 死亡年月日:1916年12月9日(享年50歳)
  • 教職を経て明治時代を代表する作家となった人物。

 

夏目漱石 年表

年表

西暦(年齢)

1867年(1歳)江戸に名主の五男として生まれる。

1868年(2歳)塩原家の養子となる。

1876年(10歳)塩原夫妻の離婚により生家へ戻る。

1879年(13歳)東京府第一中学校(現在の都立日比谷高校)に入学する。

1881年(15歳)東京府第一中学校中退。二松学舎へ入学するも2か月で退学。

1883年(17歳)英学塾成立学舎に入学する。

1884年(18歳)大学予備門予科に入学する。

1888年(22歳)夏目姓に戻る。

1889年(23歳)正岡子規と出会う。

1890年(24歳)東京帝国大学英文学科に入学する。

1893年(27歳)東京帝国大学英文学科卒業。高等師範学校の教師となる。

1895年(29歳)愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)に赴任する。

1896年(30歳)熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)に赴任する。

1900年(34歳)イギリスに留学する。

1903年(37歳)帰国。第一高等学校および東京帝国大学の英文科講師となる。

1905年(39歳)『吾輩は猫である』を発表する。

1907年(41歳)朝日新聞社に入社する。

1910年(44歳)伊豆・修善寺で大吐血(修善寺の大患)。

1916年(50歳)永眠。

 

エリートから近代日本を代表する文豪へ

夏目漱石(本名・夏目金之助)は、江戸牛込の名主の家の五男として誕生しました。

生後まもなく里子に出され、翌年には父の友人・塩原昌之助の養子となっています。

不遇な幼少期と帝大入学

ですが漱石が10歳の頃、養父母が離婚。

生家に戻ることになった漱石でしたが、夏目姓に戻ったのは22歳頃だったといいます。

やがて漱石は英学塾成立学舎・大学予備門を経て、東京帝国大学英文学科に入学します。

そして優秀な漱石は、帝大でも特待生となりました。

イギリス留学

大学卒業後(※)は英語の教師として、松山や熊本などに赴任しています。

※教師は10代の頃から務めていたようです。

特に松山中学に赴任していた頃の体験は、『坊つちやん』でも描かれていますよね。

34歳の頃、夏目漱石は文部省の命によって、イギリスへと留学します。

現地で研究に励んだ漱石でしたが、次第に神経衰弱に陥ってしまいました。

 

帰国した漱石は、東京帝国大学の英文科講師を務めることになります。

ですが学生たちに漱石の講義は不評だったようで、漱石はまた神経を衰弱させてしまいました。

そんな時、高浜虚子(たかはま・きょし)(※)が漱石に小説の執筆をすすめたのでした。

※夏目漱石と交流があった、正岡子規に師事していた俳人。

作家生活

夏目漱石が作家という職業についたのは41歳の頃。

教職を辞め、朝日新聞の専属作家となったのです。

そして『三四郎』『それから』『門』(※)などを執筆します。

※この3つを前期三部作といいます。

ですが『門』の執筆中に胃潰瘍いかいようを患い、療養生活に。

伊豆の修善寺で大量の血を吐き、危篤状態に陥ったこともありました。

 

漱石は、再び執筆活動をはじめます。

そして『彼岸過迄』『行人』『こころ』(※)などを書き上げます。

※この3つを後期三部作といいます。

ですが『明暗』を執筆中、胃潰瘍を再発。

多くの傑作を残し、夏目漱石は50歳という若さでこの世を去りました。

 

夏目漱石にまつわるエピソード

それでは夏目漱石の有名なエピソードを二つほど、ご紹介してきます。

「漱石」になった理由と意外な過去

夏目漱石の夏目は本名ですが、漱石はそうではありません。

漱石という号は、中国の故事漱石枕流そうせきちんりゅう(※)」から来ています。

※石にくちすすぎ流れにまくらす。負け惜しみが強いことのたとえ。

英語教師を務めた時代もあった夏目漱石でしたが、もとは英語が嫌いだったようです。

そのため漢学塾であった二松学舎に入学したのだとか。

最終的に漱石の専門は英語になりますが、漢詩文好きはその後も続いたため、中国の古典から名付けたということです。

生徒が華厳の滝で投身自殺

自殺の名所といわれる場所は、日本にもいくつかあります。

日光の華厳の滝もその一つ。

明治時代、藤村みさおというエリート学生が入水自殺を図ったからです。

それ以来、華厳の滝は自殺の名所となったのですが、実は藤村操という学生は夏目漱石の教え子でした。

 

ある日、漱石は学習意欲が低く見えた藤村を叱りつけました。

それから1週間後、再び漱石は藤村を指名。

それでも藤村は授業の予習をしてきていませんでした。

やる気がないなら来なくてよい、と漱石は藤村に言ったそうです。

 

それから2日後、藤村は滝の近くの木に遺書を残して自殺しました。

自殺の原因はその叱責が理由ではないそうですが、漱石はかなりショックを受けたのだとか。

この事件も、漱石の神経衰弱の原因とされています。

 

きょうのまとめ

今回は夏目漱石の生涯などについて簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

夏目漱石とは?

① 東京帝国大学を卒業後、教職を経て小説家になった

② 漱石という名は中国の故事に由来する

③ 夏目漱石の教え子には華厳の滝で自殺した藤村操がいた

こちらのサイトでは他にも、明治時代の作家についてわかりやすく書いています。

より興味を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね!

 

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