源氏と平家の間で起こった幾多の合戦で数多くの手柄を立て
平家滅亡の立役者となった源義経。
義経はその後、実の兄である源頼朝と対立し追放されて命を落としてしまいます。
しかし、異説では義経は命からがら逃げ延びて、ある偉大な国王になったという説も存在します。
源義経の家柄の家紋が、遠くの地で発見されたことがその説の根拠となっているようです。
今回は義経の家紋と、それにまつわる「義経生存説」について詳しく解説していきたいと思います。
どうぞ最後までお読みください。
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鎌倉時代にはまだ「家紋」の概念は確立されていなかった?
源義経の出自は源氏の一族である清和源氏です。
ここからさらにいくつかの流派に分かれ、義経や兄・頼朝などは河内源氏という流派の一族です。
今日では源氏の代表的な家紋といえば、
笹と竜胆の葉を合わせた笹竜胆が第一に思い浮かばれます。
しかし一説によると義経が生きていた平安の末期であったこの時代は、家紋という概念自体が存在していなかったと言われています。
家紋というよりも、一部の貴族がおしゃれとして私物にお気に入りの紋章を入れていたのです。
この文化が後に家紋として成立したのではないかという説があります。
紋章が家紋として認識されるようになったのは、義経の兄・頼朝が開いた鎌倉時代の中ごろに入ってからだと言われています。
当時、義経や頼朝が自らの旗や鎧に家紋を入れていたという記録は存在せず
源氏の笹竜胆が家紋として用いられるようになったのはいつからなのかは、はっきりと分かっていません。
義経は死んでいなかった?
実は義経は頼朝に討伐されることなく逃げ延びて、
モンゴルの国王、チンギス・ハーンになったという俗説が存在します。
義経を裏切って自害に追い込んだ藤原泰衡は義経を討伐した後、
22日間が経過してから、頼朝に義経討伐を報告しています。
そして鎌倉に義経の首が届けられるまでに、さらにそこから20日以上が経過しており、送られた首は、腐敗が進んで誰のものか分からなくなっているのではないでしょうか?
藤原泰衡は義経が亡くなったとされる数か月後に源頼朝によって滅ぼされますが、
歴史書「新羅之記録」には、その手下たちは蝦夷に逃れたという記録があり、この中に義経が紛れていたとしてもなんら不思議ではないのです。
蝦夷では義経や、その部下である武蔵坊弁慶の名前にちなんだ地名があることや、
義経が蝦夷の地でオキクルミ(狩りや農業などの文化をアイヌの人々に伝えた神)として崇められていることを
後年に「水戸黄門」として知られる徳川光圀が調査しています。
遠い異国で見つかった笹竜胆の紋章
アイヌ研究家であり、義経がチンギス・ハーンであるという説を広めたことで知られる小谷部全一郎は、
「シベリア出兵の時、ロシアのニコラエフスクの辺りで芝居を観賞していたら、とある場面で役者が笹竜胆の家紋が入った鎧を身に付けて現れた」
と記録しています。
なぜ笹竜胆の紋章が入っているのか、小谷部は役者に尋ねたそうですが、
「この鎧は昔から伝わっているもので誰のものなのかはわからない」
という返事が返ってきたそうです。
この他にも、日本との関係が深い都市であるナホトカには笹竜胆の紋章が入っている家が存在していたり、
義経のことを指す「ハンガン岬」という地名がかつて存在していたりと、
義経がロシアを訪れていたのではないかという根拠の元になるものがいくつか存在しているのです。
しかし、笹竜胆の家紋は源氏を祖とする数多くの武家が使用しているため、
ロシアに笹竜胆の家紋が存在していてもそれが義経の残したものであるかどうかは確定できないこともあり、
これらの説は俗説の域を出ません。
きょうのまとめ
義経がチンギス・ハーンと同一人物であるという説は、数多くの歴史研究家から否定されており、
現在では事実無根の俗説として認識されています。
ですが、頼朝から逃げ延びた義経が蝦夷からロシアに渡り、
そしてモンゴルの地で国王となったという伝説には壮大なロマンを感じますね。
源義経については他にも様々な記事を書いています。
興味がある方は是非ご覧になってください。
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