源頼朝の墓の場所ってどこにある?

 

鎌倉幕府の創始者、

源頼朝みなもとのよりとも

1147年に尾張国熱田(現在の名古屋市)で生を受けました。

平治の乱では敗北し伊豆に流されるなど彼が幕府を開くまでには、大変な苦労もありました。

しかしそれらを乗り越え、平氏を倒し実権を握ることができたのです。

そんな頼朝は、1192年鎌倉幕府を開いて7年後の1199年に53歳で此の世をさりました。

頼朝の墓は何箇所かあります。

今回はそれらを調べてみましょう。

 

頼朝の信仰

頼朝の墓のお話の前に、彼が信仰したゆかりの場所等を訪ねてみましょう。

頼朝は法華経の信者でした。

自ら法華経の写経や、暗誦あんじゅなどを行い「法華八幡の持者」と言われたほどでした。

1185年頼朝は、鶴岡宮へ神馬を奉納し、法華経供養を行なっています。

1188年には持仏堂で法華経講讃(講讃とは経文の意味や内容について講釈し、それを讃えること)をします。

1190年、1191年にも鶴岡宮に詣で、法華経供養をしています。

このように頼朝は法華経に厚い信仰心を持っていたことがわかります。

 

頼朝の墓所

頼朝が此の世をさった時、その亡骸は持仏堂に葬られます。

その後、持仏堂は法華堂と呼ばれるようになり多くの法要が行われました。

1779年薩摩藩主の島津しまづ重豪しげひでにより石塔が建てられ、国の史跡となっています。

明治になると廃仏毀釈により、法華堂は壊され、その跡に頼朝を祀る白旗神社が建てられます。

白旗神社は鎌倉市の西御門にあり現在は観光の名所となっています。

<白旗神社(神奈川県鎌倉市・法華堂跡):所在地 神奈川県鎌倉市西御門二丁目1番24号>

他にも

鶴岡八幡宮の白旗神社

北条政子が創建したとも、息子の頼家が作ったとも言われています

日光東照宮

明治以降になると、日光東照宮の中にも頼朝が祀られています

岩手県一関市

清和源氏の末裔である人が頼朝を慕って墓を建てたそうです

鶴岡八幡宮も日光東照宮も頼朝を祀っているとは言うものの、その御霊だけです。

頼朝の本当の亡骸はやはり最初に葬られた法華堂、現在の白旗神社の地下に今も眠っているのだと思われます。

 

きょうのまとめ

つい最近、源頼朝の石塔が破壊されると言う事件がありました。

この犯人は神社の狛犬まで壊したそうです。

安らかに眠っている頼朝に、未だに恨みを持つ誰かの子孫の仕業でしょうか?

頼朝に関する一つのミステリーな事件と言えるかもしれませんね。

歴史に名を残す人は、見方によっては良くもあり、悪くもなります。

この平和な現代で、鎌倉時代の英傑の魂が安らかであることを祈ります。
 
目次に戻る ▶▶
 

合わせて読みたい
源頼朝の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「源頼朝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 

その他の人物はこちら

平安時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【平安時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

fifteen − twelve =