鎌倉時代末期から南北朝時代のはじめに活躍した
楠木正成
最後まで南朝に忠義を尽くした人物です。
今回は「大楠公」と呼ばれ親しまれている楠木正成の像があると聞き、
その場所や由来について調べてみました。
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楠木正成の像がある場所と由来について
楠木正成の像は、2箇所にありますそれぞれみていきましょう。
東京都千代田区
楠木正成の像は千代田のお城跡、つまり皇居外苑に作られています。
皇居の二重橋を真正面に見据えるように建っているのです。
この像は1891年に住友家が別子銅山の開坑200年を記念して、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に制作を依頼したものです。
その制作には高村光雲(日本の仏師、彫刻家)らが別子銅山の銅を使って10年もかけて臨みました。
像のモデルは1333年に隠岐から帰った後醍醐天皇を、兵庫の道筋で迎えた時の楠木正成の勇姿を描いたものだということです。
ではなぜ皇居に楠木正成の像が建てられたのでしょう。
南北朝時代、楠木正成は南朝側でした。
しかし北朝の勝利により、三種の神器は北朝の元へ移りました。
つまり現在の天皇家は北朝の流れを汲んでいることになります。
ということは楠木正成は敵の象徴です。
それでも皇居に像が建てられたのです。
それは幕末の時代に、尊王攘夷運動が盛んになり薩長では特に尊王論が叫ばれてきたことに関係します。
西郷隆盛は南朝の忠臣であった菊池氏の子孫です。
長州の桂小五郎は「長州で南朝の子孫を匿っている」と西郷に告げ、南朝復活へと動き始めたのです。
そして南朝が正当な天皇家であるという流れになりました。
ですから南朝のために尽くした楠木正成の像が皇居に建てられたのです。
一説には、明治天皇になるべき人が暗殺され、南朝から明治天皇が生まれたという物騒な話もあるようですが。
<楠木正成像>
兵庫県神戸市
楠木正成が戦死した湊川の戦いの舞台である場所には湊川神社があり、彼の御霊を祀っています。
そこから1キロほど離れた湊川公園に、楠木正成の像があります。
この像は楠木正成の殉節600年を記念して1935年に神戸新聞社が寄贈したものです。
楠木正成が馬に跨り駆け出そうとする躍動感に溢れた姿で、公園を訪れる人を魅了しているそうです。
この像は兵庫区役所の建て替えと、像の修復のため一時撤去され保管されていましたが2020年に再設置されました。
<大楠公像>
きょうのまとめ
楠木正成は南北朝時代は幕府の敵として悪役のイメージがありましたが、
実は忠義に厚い武将だったことがみんなに広まり南朝の立場も認められることになりました。
そしてその忠臣が皇居の外苑で今も天皇をお守りしているのです。
北も南もどちらも天皇家です。
そのお家騒動に巻き込まれただけで、楠木正成も足利尊氏も決して悪者ではないのですね。
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