光明皇后の伝説を必要性とともに簡単に紹介!

 

聖武天皇の妃・光明皇后こうみょうこうごう(光明子)には、いくつかの伝説が残されています。

光明皇后が人臣初(藤原氏出身)の皇后であったため、

その正当化には伝説の力が必要となったのではないか? とも考えられます。

そこで今回は、光明皇后にまつわる伝説を紹介していきますね。

 

光明皇后の伝説2つ

『光明皇后』
1897年(明治30年)下村観山 画
(三の丸尚蔵館 蔵)

いかにも本当らしく書きますが、あくまでも伝説ですので!

それでは、光明皇后の伝説を2つ紹介します。

ハンセン病患者の膿を吸うと……

悲田院や施薬院をつくるなど、社会事業に尽くしたことでも知られる光明皇后。

一番有名な伝説は、こちらなのではないでしょうか。

光明皇后は奈良・法華寺の浴室からふろ(蒸し風呂のようなもの)で、

自ら千人の垢を流すという願を立てます。

すると最後の千人目は、皮膚から膿が出ているハンセン病者でした。

その病人は光明皇后に、口で膿を吸い出してくれ、と頼みます。

そして光明皇后は言われたようにすると、

病人はたちまち阿閦如来あしゅくにょらいの姿に変わり消え去ったと伝わっています。

実は鹿の子どもだった!?

藤原不比等と県犬養橘三千代あがたのいぬかいのみちよの子とされる光明皇后ですが、

実は鹿の子だったという伝説があります。

智海上人ちかいしょうにんという僧が修行中に尿意を催してしまい、

その尿を偶然なめたメスの鹿が、なんと人間の女の子(手だけは鹿だったため、布で覆っていました。これが足袋たびの起源とされることもあります。
)を出産しました。

やがて人間に引き取られて成長した女の子が田植えの手伝いをしていると、

寺にお参りに行った帰りの藤原不比等が通りかかりました。

そして女の子が不思議に光り輝いていたのを見つけ、自分の養女にしたいと言ったのです。

この女の子こそ、のちの光明皇后でした。

美しく光り輝いていたため、光明子と名付けられたそうですよ。

 

きょうのまとめ

今回は聖武天皇の妻・光明皇后の伝説について、簡単に紹介しました。

ここにタイトル
① 人臣初の皇后には、「伝説」が必要だったと考えられる

② 【伝説1】ハンセン病患者の膿を吸い出すと、仏様の姿に変わった

③ 【伝説2】鹿の子として生まれたが、藤原不比等の養女となった

こちらのサイトでは他にも、光明皇后にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 
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