光明皇后の家系図に登場する奈良時代を騒がせた女性たち

 

人臣で初めて皇后(聖武天皇妃)となった女性

光明皇后こうみょうこうごう

かつての政治というと、どうしても男性のものというイメージが強いですよね。

しかし奈良時代は、女性が政治に関係してくることも多かったのです。

そこで今回は光明皇后の家系図に出てくる女性たちにスポットをあて、

奈良時代の政治を見てみようと思います。

 

光明皇后の家系図

『光明皇后』
1897年(明治30年)下村観山 画
(三の丸尚蔵館 蔵)

さっそく、光明皇后の家系図をみていきましょう。

赤字は、記事に登場する女性です。

家系図
光明皇后の家系図

 

奈良時代の政治年表

その前に、まずは簡単に奈良時代の年表を紹介しておきます。

【 】内に書かれた人名は、その当時における政界の実力者です。

年表
  • 701年 大宝律令の制定【藤原不比等】
  • 718年 養老律令の制定
  • 723年 三世一身法の制定【長屋王】
  • 729年 長屋王の変・光明皇后の立后【長屋王→藤原四子】
  • 737年 藤原四子全員が病死【藤原四子→橘諸兄】
  • 740年 藤原広嗣の乱
  • 741年 国分寺建立の詔
  • 743年 墾田永年私財法の制定・大仏建立の詔
  • 752年 東大寺大仏の開眼供養
  • 757年 橘奈良麻呂の変【藤原仲麻呂】
  • 764年 藤原仲麻呂の乱
  • 769年 宇佐八幡宮信託事件【道鏡】

 

光明皇后の家系図に出てくる女性たち

それでは、奈良時代の政治に関わった女性たちについて紹介していきます。

県犬養橘三千代

光明皇后は、藤原不比等と県犬養橘三千代あがたのいぬかいのたちばなのみちよの子として誕生しました。

県犬養橘三千代は、天武天皇から聖武天皇という歴代天皇に仕えた女官にょかんです。

宮廷に強い影響力を持っており、光明皇后の立后りっこうに貢献したことでも知られています。

光明皇后が聖武天皇の妃となることにより、当時の藤原四子(※1)政権は盤石となりました。

※1

藤原不比等の子。

武智麻呂むちまろ

房前ふささき

宇合うまかい

・麻呂

の4兄弟。

さて実は、県犬養橘三千代は不比等の後妻。

不比等に嫁ぐ前には、美努王みののおうという人物との間に、

橘諸兄たちばなのもろえらをもうけていました。

橘諸兄とは藤原四子の死後、実権を握ることになる人物です。

権力者が変われど、彼女の血が関係していることはすごいですね。

ちなみに県犬養橘三千代は不比等との間には、光明皇后以外にも多比能たびのという娘が生まれています。

この女性は橘諸兄と結婚し、生まれたのが橘奈良麻呂(藤原仲麻呂を除こうとするも(=橘奈良麻呂の変)、失敗して獄死した人物。)です。

まあ、血が濃いですね・・・。みんな親戚。

元正天皇

さて、次は光明皇后の夫・聖武天皇のおばにあたる元正天皇です。

奈良時代は女帝が珍しくはありません。

元正天皇の母も元明天皇ですし、その母親は持統天皇(天武天皇の皇后。天武天皇の死後に即位し、藤原京の造営などを行った。)です。

さらに後述しますが、光明皇后の娘も即位しています。

元明・元正天皇は文武天皇(元明天皇の子)が若くして崩御し、

まだ幼い聖武天皇が成長するための中継ぎとして即位したといわれます。

ですが実際には「お飾り」だったわけではなく、橘諸兄や藤原仲麻呂たちとともに政務を執っていたそうで、

元正天皇の在位中には

養老律令(大宝律令の後に成立した律令のこと。内容に大差はない。)の制定や

三世一身法(開墾かいこんした土地を、曽孫(有力説)の代まで私有することを認めた法)の発布などが行われています。

吉備内親王

吉備内親王は元正天皇の妹です。

天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子くさかべのみこと、元明天皇との間に生まれました。

このように非常に良い血を引いており、さらに天武天皇の孫・長屋王と結婚しています。

ということで、吉備内親王と長屋王との間に生まれた子どもたちも、

非常に優れた血筋ということになります。

つまり長屋王とその子たちは、皇位候補となる可能性が高かったのです。

しかし、この血筋の良さが災いしました。

長屋王と敵対していた藤原四子たちの謀略によって、長屋王は自殺に追い込まれます。

さらに吉備内親王と子どもたちもその翌日、首をくくって自殺しました。

これを長屋王の変といい、藤原四子が権力を握るきっかけになりました。

孝謙天皇(称徳天皇)

最後に紹介するのは、光明皇后と聖武天皇の間にできた娘です。

この女性は二度天皇に即位(=重祚/ちょうそ)したため、

孝謙天皇称徳天皇という二つの呼び方があります。

そんな孝謙天皇(称徳天皇)は、なかなかの大事件を引き起こしていますよ。

 

孝謙天皇は藤原仲麻呂を用いていましたが、やがて淳仁じゅんにん天皇に譲位。

やがて道鏡という僧を寵愛ちょうあいするようになります。

一方、仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝えみのおしかつ」という名を賜るほど、密接な関係に。

この頃の藤原仲麻呂の権力は、絶頂に達していたのです。

ですが仲麻呂が信を得ていた光明皇后が亡くなると、朝廷内は分裂。

孝謙上皇と道鏡、淳仁天皇と仲麻呂という対立が浮き彫りとなりました。

台頭してきた道鏡を排除しようと、仲麻呂は乱(=藤原仲麻呂の乱)を起こすも敗死。

その後孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、ますます道鏡を重用するようになります。

ですが道鏡という僧は野心家で、自分が皇位に就こうと考えていました。

そこで宇佐八幡宮信託事件(※2)が起こります。

※2
道鏡を皇位に、という宇佐八幡宮からの神託を確かめに行った和気清麻呂わけのきよまろが、それは嘘であると奏上したこと。

この翌年、称徳天皇は子どもを残さぬまま死去。

道鏡も下野国に流され、皇位は天智天皇の孫・光仁こうにん天皇へと移ることになりました。

 

きょうのまとめ

今回は光明皇后を中心に、奈良時代を騒がせた女性たちについて簡単に紹介しました。

① 県犬養橘三千代は光明皇后だけでなく、橘諸兄も産んでいる

② 元正天皇は「中継ぎ」として即位するも、しっかりと政務を執っていた

③ 吉備内親王は長屋王の変で、子どもたちとともに自殺した

④ 孝謙天皇(称徳天皇)は道鏡を寵愛し、あやうく皇位を奪われるところだった

こちらのサイトでは他にも、光明皇后にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 
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