木曽義仲の最期は、旧暦の1184年1月20日です。
彼は今、滋賀県の粟津にある義仲寺の墓に眠っています。
そこは義仲を慕う人の気持ちが一つになった墓所となっています。
義仲の最後の敵は平氏ではありません。源氏の源頼朝です。
頼朝は後白河法皇を味方につけ、都の義仲に向けて源範頼・義経軍を差し向けます。
法皇から見捨てられ、従う兵も少なく、宇治川や瀬田での戦いに惨敗する義仲。
そこから義仲最期のストーリーが始まります。
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朝日将軍・木曽義仲の最期
義仲の最期は『平家物語』第9巻の悲劇の名場面「木曽最期」として語り継がれてきました。
今井兼平との再会、巴御前との別れ
追われる義仲は最初、彼の地元基盤である北陸を目指していたはずでした。
しかし、結局目指したのは北陸ではなく、彼の腹心の部下であり乳兄弟である今井兼平の元でした。
お互いを探し合った義仲と兼平は大津の打出浜で再会します。
再会の喜びは、生きて逃げるためではなく、一緒に死ぬまで戦って有終の美を飾るため。
彼らは、最後の100騎で鎌倉軍に挑みました。
奮戦の後、残ったのはたったの5騎。
そして義仲は、最後まで気丈に戦い従って来た女武者・巴御前を呼びます。
そう言って彼女に去れ、と命じたのです。
それは、義仲が幼い頃から兼平と同様に大切にした巴への優しさでした。
巴は、
と、敵に向かい、一人の首をねじ切って鎧を脱ぎ捨てると、その場から去って行ったのです。
それが巴と義仲の別れであり、その場には義仲と今井兼平だけが残されることになります。
粟津の戦い――朝日将軍の最期
義仲は、兼平に
と素直に弱気な発言をします。
兼平は
そう励まします。
2人が粟津までやって来ると、50騎の敵が現れ、義仲は2人で討ち死にしようと兼平に提案します。
しかし、兼平は「天下の朝日将軍が雑兵に討ち取られては、名前に傷が残る」とし、義仲を自害させるために粟津ヶ原の松林へと向かわせ、自分だけで敵を食い止めようとしました。
義仲は松林をめざしましたが、馬が田んぼの深みにはまって動けなくなります。
そしてふと、今井兼平を心配した義仲が彼を振り返った瞬間、敵の矢に頭を射られて、討ち取られてしまいました。
それを見て、これ以上戦う意味がないと悟った兼平は、「自害の手本を見せてやる」と太刀の切っ先を口にくわえて、馬から真っ逆さまに飛び落ち、太刀に貫かれて絶命したのです。
義仲の最期は「一家も焼かず一人も損せず」と言われます。
朝日が昇るがごとく京に現れ「朝日将軍」と呼ばれた木曽義仲は、無関係の人々を道連れにすることなく、乳兄弟であり無二の親友である兼平と二人だけでこの世を去ったのでした。
義仲の墓と慕う人々
木曽義仲が眠る場所は、彼の人柄が偲ばれる墓所となっています。
義仲の墓所
滋賀県大津市馬場にある義仲寺に木曽義仲の墓があります。
義仲の墓の横に巴御前が結んだ無名庵が寺の前身だったということです。
境内には義仲の墓、芭蕉の墓、無名庵、朝日堂などや、数々の句碑や俳人の墓が境内に所狭しと並んでいます。
それは、義仲を想う巴、そして彼に憧れた人々の温かい気持ちに満たされた境内です。
芭蕉と義仲
義仲の墓の側には俳人・松尾芭蕉の墓もあります。
芭蕉はもともと伊賀上野出身の武士でした。
29歳から俳諧で身を立て、『奥の細道』などを発表したことはとても有名ですね。
実は芭蕉は生前から、真っ正直でまっすぐに生きた情の厚い義仲の生きざまをとても愛し、憧れていました。
彼は幾度も無名庵(現在の義仲寺)に足を運んでいます。
芭蕉の遺言には「骸は木曽塚に送るべし」とあり、弟子たちは大阪で亡くなった芭蕉の亡骸を義仲寺まで運んだのです。
そういうわけで、芭蕉は憧れの義仲と同じ地の墓で今も眠っています。
芭蕉は義仲に関連した句を幾つか詠んでいます。
「むざんやな甲の下のきりぎりす」
「木曽の情雪生えぬく春の草」
そして、無名庵滞在中の芭蕉を訪ねた又玄の句として有名なのが
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」
です。
今井兼平と二人で寂しく死んでいった義仲ですが、今はこの琵琶湖のほとりの町の寺で、彼を慕う人々に囲まれるように静かに眠っているのです。
<義仲寺の地図>
きょうのまとめ
義仲の最後と墓についてご紹介しました。
今回の簡単なまとめです。
① 木曽義仲は最後まで今井兼平と一緒に戦い、共に死んでいった。
② 巴御前が義仲の墓の側に作った庵が、現在の義仲寺の始まりと言われている
③ 現在義仲は、松尾芭蕉の墓をはじめ、俳人たちの墓や句碑に囲まれた墓所で眠っている
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