マリア・テレジアとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

マリア・テレジアは、ハプスブルク家を絶体絶命の危機から救ったとされる、

オーストリアの事実上の女帝だった人物です。

フランス王妃のマリー・アントワネットの母親でもあります。

彼女の時代からハプスブルク家は緩やかに衰退していったといわれています。

『マリア・テレジア』とはいったいどんな人物なんでしょう?

 

マリア・テレジアとはどんな人?

プロフィール

マリア・テレジア
出典:Wikipedia

  • 出身地:オーストリア ウィーン ホーフブルク宮殿
  • 生年月日:1717年5月13日
  • 死亡年月日:1780年11月29日(享年64歳)
  • オーストリア公大妃で事実上の女帝。「天下無双の女帝」と称される。

 

マリア・テレジア年表

年表

西暦(年齢)

1717年(0歳)神聖ローマ皇帝カール六世とエリザベート・クリスティナの娘として生まれる。

1736年(18歳)フランツ・シュテファン・フォン・ロートリンゲンと当時としては珍しい恋愛結婚をする。

1740年(24歳)父で皇帝のカール六世逝去。ハプスブルク家の全領土を相続。

同年オーストリア継承戦争勃発。

1741年(24歳)モラヴィツの戦いでオーストリア軍大敗。

1745年(28歳)夫フランツが、「皇帝フランツ一世」として神聖ローマ帝国の皇帝となる。

1748年(30歳)アヘーンの和約。オーストラリア継承戦争が終結する。

1753年(36歳)カウニッツが国務長官の要職に任じられる。後に彼の功績でフランスとの防御同盟が結ばれる。

1755年(39歳)末娘のマリー・アントワネット誕生。

1765年(48歳)夫フランツ逝去。長男ヨーゼフ二世が皇帝に即位。

1770年(54歳)マリー・アントワネット、フランス王大使と結婚。

1772年(55歳)第一次ポーランド分割。

1774年(57歳)マリー・アントワネット、フランス王妃になる。

1780年(64歳)急性肺炎により逝去。

 

期待されていなかった子ども時代

王子を4ヶ月前に亡くしたばかりの父カール六世は、男子の誕生を望んでおりテレジアの誕生には父をはじめ宮廷関係者皆がガッカリしました。

テレジアは後継者としての期待はされておらず、幼少期の記録はほとんど残っていません。

しかし彼女は色白で、母譲りの美貌を持ち、周りの男性を魅了する存在であり、

市民からも人気がありました。

 

父の死によりハプスブルク家を相続

父の思いから生まれた『国事詔書』

テレジアの父カール六世は生前、男子がいない継承問題から戦争に巻き込まれ滅亡した「スペイン継承戦争」のような憂き目を見るのではと心配していました。

1713年にカール六世は、『国事詔書』を必死の思いで発布しました。

内容は、

「全家領の不分割・不分離」

及び

「女系相続の場合の自己の家系の他の兄弟の家系に対する優先」

です。

これは「女系にも相続を認める」というものでマリア・テレジアに帝国を相続させる権利を与えるものでした。

1738年に領土的な犠牲を払い、やっと列国の承認を得ることができました。

ハプスブルク家を相続するテレジア

『国事詔書』が最後のフランスに承認された2年後の、1740年に父カール六世は逝去します。

(死因は胃癌によるものといわれています。)

相続当時23歳だったテレジアは、その4年前にロートリンゲン・トスカーナ大公のフランツ・シュテファンと結婚しておりハプスブルク家を相続しました。

領土を我が国のものにしたい、バイエルン、プロイセン、ザクセン、スペインは「国事詔書」を反故にし相続を認めません。

最後まで承認を渋ったフランスも裏切りました。

 

テレジア時代の2つの戦争

オーストリア継承戦争へと突き進む反発勢力

テレジアの相続に反発する国々が、次第に集結し始めます。

フランスは、バイエルンやプロイセン、ザクセンと組み、ハプスブルク家の領地分割を模索しました。

彼らの分割案は、オーストリアから神聖ローマ皇帝の地位を奪い、ヴィッテルスバッハ家をバイエルンに帰属させるということでした。

ハプスブルク家の支配下にあった、”領地随一の肥沃の地シュレージェン”をプロイセンに。

ベルギーをフランスが占拠し、治安が不安定だったハンガリーのみテレジアに継がせるというものでした。

もちろんテレジアも、こんな不合理なこと聞き入れるわけにはいきません。

テレジアが相続するとすぐに火ぶたを切ったのは、プロイセンのフリードリヒ二世でした。

いきなり、テレジアにとってもオーストリアにとっても大切だったシュレージェンに侵入したのです。

これが「オーストリア継承戦争」の始まりでした。

神聖ローマ帝国の行方

フランスが勢力拡大を目論むと、植民地争いをしていたイギリスがハプスブルク家の味方に付きました。

テレジアにとってはラッキーなことです。

 

バイエルンは1741年の夏から参戦。

カール・アルブレヒト選帝が神聖ローマ皇帝になります。

皇帝アルブレヒトの人気は、前帝カール六世(テレジアの父)への不満もありウィーン市民の間で人気が高まりました。

市民は、

「オーストリアには、女はいらない。」

「フランツを追い出せ!」

「我々には、カール・アルベルトの方がいい。」

との宣伝文句が、グラーベン広場やコールマルクトなどに張り出され、ウィーン中にばらまかれました。

アルブレヒトは、テレジアが早いうちにしっぽを巻いて逃げると踏んでいました。

しかし、イギリスの支援のお陰もあり、テレジアは反撃に転じました。

1745年にアルブレヒトは突然死してしまい、夫フランツが皇帝に選ばれました。

皇帝妃となったテレジアは、事実上の「女帝」となります。

オーストリア継承戦争は終結しましたが、シュレージェンは戻ってきませんでした。

この時、プロイセンのフリードリヒ二世に対しての、テレジアの憎しみは骨髄にまで達します。

実はこの二人、若いころはお見合い話まで出た間柄でした。

神聖ローマ帝国の帝冠がハプスブルク家から他に移ったのは、このアルブレヒトが帝位に就いた3年間だけでした。

人生2回目の戦争!七年戦争

その後もテレジアは、「シュレージェン」を取り戻そうと画策しており、もう一つ戦争を起こしています。

これが七年戦争です。

オーストリアと手を組んでいたロシアのエリザヴェータ女帝が突然死しました。

ロシアは、その後すぐに戦争から手を引いたのです。

残念ながらテレジアのシュレージェン奪回の夢は、儚くも消え去りました。

この戦争は、シュレージェンがプロイセンの領地であることを確認しただけで終わりました。

また、イギリスも世界帝国の基盤を固視しています。

この戦いで、100万以上の人々が命を落としており、テレジアは、シュレージェン奪還という「幸福に向けての戦争」より、領民と公共の幸福を念頭に政治を進める「中途半端な和平」を選ばざるを得ませんでした。

この後はシュレージェン奪還を諦め、内政整備に力を注ぐことに専念しています。

いわゆる「絶対王政」が完成します。

彼女は、後に戦争に突入したころの、惨めといえる時代のことを告白しています。

金も、信用も、軍隊も、自らの経験も、知識も無く、そのうえ、助言するものもいない。

と語りました。

この時テレジアは、3児の母で、お腹の中には4人目の子がいました。

 

母としてのテレジア

良妻賢母だったテレジア

フランスやプロイセンが、ハスプブルク家に容赦のない攻撃をしていた時も、テレジアは子どもを産んでいます。

20年の間に16人もの子どもを授かっています。

テレジアは、良妻賢母で、忙しい政務の合間を縫って家庭生活も大切にしていました。

一説によると、政務が忙しく子どもと接していられる時間は、1日30分ほどだったともいわれています。

6人の子どもは命を落としてしまいますが、この時代にしては珍しく自分の手で子どもを育てました。

色々な絵画に描かれているように、他の女帝たちと比べてテレジアは家族に恵まれていました。

 

ハプスブルク帝国は、プロイセンなどの新興国と比べ、近代的な国造りはできていませんでした。

しかしテレジアは教育はもちろん、産業の振興にも力を尽くしています。

テレジアの子どもたちへの教育は、衛生管理と粗食、献身なまでの道徳的価値に拘っていたといわれています。

娘のマリー・アントワネットとの暮らしとは全く逆で、自分たち王家が贅沢な暮らしをすることで民衆を苦しめることは絶対あってはならないこととし、民衆救済を第一に考えていたのです。

 

 

それぞれの幸せを考えた子育て

しかし、子どもたち全員を平等に可愛がることはなく依怙贔屓をしており、母の愛情を得たい子どもたちは、必死で争ったといわれています。

次女マリア・アンナは、体が弱くテレジアに可愛がられることがなかった娘です。

年ごろには病気のせいで背中が曲がり、テレジアが推し進めた政略結婚の役に立つような子どもでなかったことも要因だったようです。

行く末を案じたテレジアは、プラハの貴族女性のための施設を作り、そこの院長になるよう命じます。

彼女は、体調を理由に現地に赴任することはありませんでした。

しかし、仲の良かった6女のマリア・アマーリエが嫁いでしまうと、自分を奇怪な目で見ず温かく迎えてくれたエリーザベト修道院に自ら入りました。

このように依怙贔屓はあったものの、どの子も愛情をもって育てています。

子どもたちが巣立った後も、テレジアは手紙を送り叱咤激励はもちろん、間違った道を歩まぬよう諭していました。

フランス王妃になったマリー・アントワネットにも、質素倹約するように手紙を送っています。

母のいうことを聞いていれば、フランス革命も起らなかったかもしれませんね。

 

 

テレジアの最後

恋愛結婚で夫婦となったテレジアは、夫のフランツが亡くなった時、悲しみに暮れました。

身の回りのもの全てを女官たちに与え、その後15年間も喪服で過ごしました。

晩年には親友に、そろそろお迎えが来るとの手紙を送っており、頻繁にカプツィーナ教会のフランツの霊廟を訪れて対話をする時間が増えました。

しかし教会の階段を上るのも困難になり、特別にエレベーターが付けられていたようです。

晩年に肖像画を見ても分かるように、テレジアはかなり太っていました。

彼女の体重に耐えられなかったエレベーターの綱が、切れてしまったというエピソードも残っています。

この事件から2~3週間後の、1780年11月8日に、一番可愛がっていた子どもミミや他の子どもたちが遊びに来ました。

不調を押して高台のグロリエッテに上り、真下に広がるハプスブルク家の絶対主義の象徴で、マリア・テレジア・イエローに塗られた、シェーンブルン宮殿を見渡しました。

鳥が両翼を広げたような優雅な宮殿の姿は、テレジアを感動させたことでしょう。

更に約2週間後の11月29日の午後9時に、息子や娘たちに見守られながら、肺炎で逝去しました。

これにて、40年の女帝の統治も終焉を迎えました。

亡くなった時は、フランツの古いガウンを身にまとっており、決して手放すことはありませんでした。

 

<シェーンブルン宮殿>

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

マリア・テレジアとは?

① 後継者としては期待されていなかった

② 父の急死によりハプスブルク家を相続した

③ オーストリア継承戦争の敗北によりシュレージェンを失った

④ 16人の子どもを産み、良妻賢母だった

⑤ 最後まで夫を愛していた

その他の記事についてもマリア・テレジアにまつわる色々な記事を書いています。

よろしければ、どうぞ御覧ください。

 
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