数ある新選組隊士について語る中、この人の話ほどやりきれないものはありません。
話しの主人公・河合耆三郎とは
一体どんな人物だったのでしょうか。
タップでお好きな項目へ:目次
河合耆三郎はどんな人?
- 出身地:播磨国(現在の兵庫県)
- 生年月日:1838年
- 死亡年月日:1866年3月28日(享年29歳)
- 新選組での役職:勘定方、小荷駄雑具方
- 愛刀:濃州住御勝山永貞
- 墓:京都市中京区仏光寺通北上壬生寺、京都市下京区四条大宮西光縁寺
- 裕福な商家の息子で、得意の算術を行かして新選組の勘定方を務めるが、隊の公金を紛失した責任を取らされて切腹(斬首とも)となった。
河合耆三郎 年表
西暦(年齢)
1838年(1歳)播州高砂の米商人河合儀平の長男として誕生
1863年(26歳)上洛し、新選組の前身・浪士組に入隊、八月十八日の政変に出動
1864年(27歳)池田屋事件出動、禁門の変出動
1866年(29歳)隊の会計の不正の責任を負って切腹
河合耆三郎の生涯
河合の死については、実際のところ、100%史実かどうかについては疑問もありますが、ここでは最もよく言われている話しをご紹介します。
算術が得意な古参の隊士
播磨国(兵庫県)出身で、実家は富裕な蔵元(米問屋)。
新選組と呼ばれる前の、壬生浪士組の頃に入隊している古参隊士です。
得意の算術を活かし、勘定方として新選組の経理面で活躍しました。
金の出入りが激しい新選組で、河合は大いに頼りにされたようです。
武芸については劣等と伝えるものもありますが、新選組の主たる戦闘にも参加しています。
池田屋事件にも参戦し十五両の褒賞金をもらっていることから、実際には人に劣らない腕前だったのではないかとも言われます。
消えた隊の金と河合の命
1866年に近藤勇の妾である深雪太夫の身請け金五百両を新選組として用立てる必要がありました。
そして、土方歳三が河合に金を確認したときに、隊の公金50両が不足していることが発覚します。
その咎によって切腹(もしくは斬首)を言い渡された河合。
河合は土方から猶予の時間をもらい、切腹を免れるために裕福な実家に早飛脚で資金を借りようと使いを出します。
しかし、たまたま父親が河合の手紙を確認するのが遅れたため、資金が新選組に到着したのは、河合の死後だったのです。
切腹を聞いた親は大変怒り、新選組が立てた墓とは別に息子を供養するための立派な墓を壬生寺に建てました。
印象的なエピソード
ここでは、河合耆三郎の印象的なエピソードについてみていきます。
「金はまだ届きませんか?」――河合の最期
隊の資金を揃えて見せることができなかった河合は当然の如く疑われ、謹慎させられてしまいます。
足りない金の責任は、河合が盗んだか否かを問わず、勘定方にあるのです。
そして、隊規に厳しい新選組の河合に対する処分が謹慎で済むわけがありませんでした。
死に値する罪を悟った河合は、実家に頼んで足りない50両を借り受ける手紙を早飛脚で送ります。
河合の必死の懇願に、土方は彼に猶予の時間を与えます。
ところが、実家の父親は、たまたま出掛けており、その手紙を読むのが遅れてしまったのです。
待っても、待っても実家から金は送られてきません。
「播磨からの飛脚はまだ来ませんか?」
「金はまだとどきませんか?」
何度も周囲の者に尋ねる河合。
河合は切腹間際まで、飛脚が来ることを待ち続けていたそうです。
1866年2月12日、河合は切腹して果てました。
沼尻小文吾という隊士が介錯を務めましたが、動揺したのか介錯の最初の刀は肩に当たり、2回目は頭にあたり、3回目でようやく首を落とすことができました。
河合にとって苦しく悲惨な切腹でした。
河合の死後
河合の死後、その切腹を知った親は大変怒りました。
父親や親類が播磨からやってきて、屯所付近で騒ぎたてたのだそうです。
隊士らがこれを追い払うと、今度はまた新選組へのあてつけのように、葬列を組んで屯所前を練り歩き、壬生寺に墓を建てました。
今でも新選組の屯所近くの壬生寺の近藤胸像の横に河合の墓碑があります。
新選組は光縁寺に河合の墓を建てましたが、河合の親族は、それとは別に、彼を供養するための立派な墓を壬生寺に建てたのでした。
河合の死の理由について他の説
上記の説が河合の死に至る一般的な経緯です。
しかし、彼の死の原因となった隊の金が不足していたことについての理由にはいくつかの説があります。
なぜなら、近藤勇の妾の深雪太夫を身請けする費用が足りなかったという説については、深雪太夫の身請け話しは、河合の切腹よりも1年以上前の話しであるため、整合性がないと言われているからです。
・深雪太夫ではない別の芸妓の身請け話が進められて、それが原因で経理ミスを起こした
・近藤がたびたび女性関係に浪費するため、隊費管理の責任者として河合が苦言を呈したために、粛清された
・河合が何らかの理由で資金を流用していた
・河合が何らかの反乱工作を企てようとして露見した
・河合が単に私用で使い込みをした
・他の新選組幹部(一説には武田勘柳斎)が関わっていた
が挙げられています。
いずれにせよ、隊の公金について土方副長の目を誤魔化すことはできなかったわけでした。
きょうのまとめ
河合耆三郎についていかがでしたでしょうか。
河合耆三郎とは?
簡単にまとめると
① 得意の算術を駆使して新選組を切り盛りした勘定方
② 新選組隊士として戦闘にも参加した古参隊士
③ 勘定方として致命的なミスが発覚した結果、無残に粛清された隊士
と言えるのではないでしょうか。
その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
コメントを残す