片倉景綱とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

片倉景綱かたくらかげつなは、伊達政宗だてまさむねの家臣でした。

通称は小十郎。

ただし、小十郎は片倉家の当主が代々名乗った名前です。

当記事では独眼竜政宗の軍師として活躍した小十郎こと景綱がどんな人物だったのか、

その生涯や逸話についてご紹介します。

 

片倉景綱はどんな人?

プロフィール

片倉小十郎景綱像(仙台市博物館所蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:出羽国置賜郡(現在の山形県米沢市)
  • 生年月日:1557年
  • 死亡年月日:1615年10月14日(享年59歳)
  • 伊達政宗の重臣で智勇に優れた武将、軍師。戦や交渉などさまざまな形で主君を導き助け、伊達家の発展に寄与した

 

片倉景綱年表

年表

西暦(年齢)

1557年(1歳)出羽国の八幡宮神職・片倉景重の次男として誕生

1567年(11歳)主君・伊達輝宗の嫡子・政宗誕生。景綱の姉・喜多が乳母となる

1575年(19歳)遠藤基信の推挙により政宗の近侍となる

1584年(28歳)嫡男・片倉重綱(片倉重長)が誕生

1585年(29歳)人取橋の戦いに参加

1588年(32歳)郡山合戦に参加

1589年(33歳)摺上原すりあげはらの戦いに参加

1590年(34歳)小田原征伐に参加

1593年(37歳)文禄・慶長の役に参加

1600年(44歳)関ヶ原の戦いに参加

1602年(46歳)一国一城令にもかかわらず特例で白石城を賜る。病に陥る

1614年(58歳)病のため大坂の陣へは嫡子・重綱を参陣させる

1615年(59歳)病没

 

片倉景綱の生涯

片倉景綱がその人生において幸運だったのは、20歳以上離れた非常に優秀な姉がいたこと、そして伊達政宗に出会ったことと言えそうです。

誕生、そして姉による教育

1557年、景綱は米沢・置賜郡永井庄おきたまぐんながいのしょうにある八幡神社(成島八幡神社)の神職・片倉景重の次男として誕生。

片倉家は、神職ながら景綱の祖父・片倉景時のころから伊達家に仕えていました。

ところが、幼い景綱の両親が相次いで死没しました。

神官職は、景綱の異母兄・片倉重継が継ぐため、親戚筋の藤田家の養子となったものの、その家に嫡男が誕生すると再び片倉家に戻ります。

その後は姉・喜多きたと共に暮しました。

20歳も年の離れた姉の喜多は、景綱にとって母のような存在でした。

文武両道に通じ、兵書を好んだ彼女の元で、景綱は武将としての基礎教育をしっかり受けて育ちます。

景綱、伊達家に仕官する

伊達政宗

1567年、片倉家の主君・伊達輝宗だててるむねの嫡子として政宗が誕生すると、喜多は政宗の「乳母」(実質は教育係)を拝命。

こうして、伊達政宗も景綱同様、片倉喜多に教育されました。

1570年代、伊達家城下で起きた米沢の大火の際に、危険を顧みず火消しに務めた景綱は、その活躍が認められて伊達輝宗の徒小姓かちこしょう(主君が外出するときに徒歩で付き添う世話係)となります。

伊達家家臣・遠藤基信えんどうもとのぶの剣術指南によりめきめき才能を発揮。

基信の推挙で政宗の近侍となり、次第に重用されていきました。

当時の記録から、景綱が他家との渉外に活躍していた様子も窺えます。

伊達政宗を支える重臣として

景綱は

・1585年 人取橋の戦い

・1588年 郡山合戦

・1589年 摺上原の戦い

で政宗の軍師として策略・調略を駆使し、伊達家の発展に大きく貢献しています。

さらに

・1590年 小田原征伐

・1593年 文禄・慶長の役

・1600年 関ヶ原の戦い

など政宗が関わる主要な戦いに活躍した景綱は、智勇兼ね備えた武将として名を馳せます。

特に、後北条家との同盟関係のせいで、豊臣秀吉の小田原征伐への参加要請に躊躇ちゅうちょする政宗を説得して参陣を決意させたのは景綱です。

政宗の景綱に対する信任が厚かったことは、

・城代として安達郡二本松城の在番、信夫郡しのぶぐん大森城主、佐沼城さぬまじょう主、亘理城わたりじょう主などを次々と任されたこと

・伊達家の発給した外交文書の多くに景綱の副状そえじょうが見られ、対外的な交渉に深く関わっていたこと

などからもわかります。

景綱の病と最期

豊臣秀吉亡きあと、伊達政宗は徳川家康につきました。

1600年の関ヶ原の戦いでは、片倉景綱が上杉景勝の白石城を攻略。

一国一城令(大名は居城以外の城を全て破却しなければならない法令)にもかかわらず、政宗の仙台城に加えて、景綱が特例で白石城主となることが許されました。

しかしその後、景綱は病に陥りました。

療養中で参加できなかった1614年の大坂の陣には、嫡子の重綱を参陣させています。

その後病状(糖尿病と考えられている)は好転せず、片倉景綱は1615年10月14日に亡くなってしまいました。

この時、片倉景綱を慕う6人の家臣たちが殉死しています。

 

片倉景綱と伊達政宗の絆を示すエピソード

伊達政宗の家臣だった片倉景綱ですが、主従関係があったとはいえ、景綱の方が10歳年上であり、共に景綱の姉・片倉喜多に教育された2人の間には特別な繋がりがありました。

伊達家の存続への好判断!片倉景綱の説得

豊臣秀吉

1590年の小田原攻めの際、豊臣秀吉の要請にもかかわらず、出陣を拒んでいた伊達政宗を強く説得して参加させたのは、片倉景綱です。

景綱は、

「関白・豊臣秀吉の勢いは夏に生じる蝿のようなもので、2度、3度防いでも長くは抵抗できない。それと敵対するのは運のつきである」

と説得したのです。

政宗は遅ればせながらも豊臣秀吉の元に駆けつけました。

彼の遅参に怒り心頭の秀吉は、政宗と面会もしません。

千利休

そこで政宗は、豊臣秀吉のブレーンだった千利休に茶を習い、秀吉の興味を引いたところで彼との謁見えっけんにこぎつけます。

そして、秀吉の前になんと死装束しにしょうぞく姿で登場。

つまり切腹の覚悟があるという大芝居です。

パフォーマンス好きの秀吉は、政宗の思いきった行動をおもしろく思い、怒りを静めたとか。

これらの演出の入れ知恵をして、伊達家の窮地を救ったのが景綱だと言われています。

さらに1595年の関白・豊臣秀次の切腹事件では、政宗まで連座しそうになったところを片倉景綱が秀吉に弁明して処罰を回避しています。

政宗の片目をくり抜き、火傷まで?景綱の仰天行動

幼い頃の伊達政宗は内気な少年でした。

彼が患った疱瘡ほうそう(天然痘)の後遺症で右目を失明し、目玉が飛び出ていた姿にコンプレックスを感じていたのです。

そんな自分が嫌になった政宗少年は、家臣たちに自分の飛び出した右眼をえぐり取れと迫ったそうです。

(『片倉代々記』『性山公治家記録』による)。

家臣たちが困って逃げる中、景綱だけが理解を示し、小刀を使って政宗の右目をえぐり出してやりました。

自分が要求したこととはいえ、噴き出す血と激痛に卒倒する政宗。

そんな政宗に景綱は

「それくらいの痛みで武士が卒倒とは情けない」

と言い放ったといいます。

また、脇腹にできた腫瘍に苦しむ政宗に頼まれた景綱が、焼いた鉄の棒で患部を焼き切ってやったことも。

まず景綱は自分の無傷のももに熱した鉄棒を押し当て、命に関わらないことを確認してから政宗の患部を焼いてやったそうです。

この荒療治で政宗は回復に30日かかり、景綱はなんと全治に2ヶ月の重症だったとのことです。

戦場で政宗の窮地を救う景綱の機転

1585年の人取橋の戦いで伊達氏が佐竹氏・蘆名あしな氏と戦った時、政宗の周囲に敵兵が殺到しました。

その時に景綱が、

「小十郎(片倉景綱のこと)、退くな!政宗がここについておるぞ!」

政宗のふりをして叫び、敵を自分に引き付け窮地から救ったとされています。

秀吉や家康のスカウトにノーと言った政宗への忠誠

豊臣秀吉は、智勇を兼ね備えた片倉景綱を直臣に取り立てたかったようです。

小田原征伐を含む奥州仕置おうしゅうしおきの際に5万石の大名待遇を提示し、1592年から始まった朝鮮出兵の時に軍船・小鷹丸(こだかまる)を片倉景綱に下賜するなどしてアプローチ。

徳川家康も1601年に江戸屋敷を与えようとしています。

しかし、いずれのオファーも景綱は固辞

伊達政宗の傍を離れることはありませんでした。

 

片倉景綱の墓所

宮城県白石市にある傑山寺けっさんじは、片倉家の菩提寺であり県の風致地区として特別認定を受けている美しい寺院です。

本堂の手前には笛の名手でもあった景綱の銅像が、愛用の篠笛しのぶえ「潮風」を手にした姿で参拝者を迎えます。

そして、境内奥にある大きな杉の木が景綱の墓標です。

「敵に墓を暴かれぬように」との景綱自身による用心からわざと墓石を置かず、一本の杉を植えてそれを彼の墓としたのです。

「片倉の一本杉」は現在も空高く力強くそびえ立っています。

<片倉景綱公墓標一本杉 臨済宗妙心寺派常英山傑山寺:宮城県白石市南町2丁目7-20>

 

きょうのまとめ

片倉景綱とは、

① 伊達政宗を幼いころから支え、伊達家の発展に尽力した腹心

② 戦場や決断の場で何度も政宗を救い、導いた智勇の武将

③ 天下人たちのどんな誘いにも応じずに伊達家に誠を貫いた忠臣

でした。

片倉景綱と伊達政宗。

この2人の間には、誰にも割って入れない特別な絆が結ばれていたんですね。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku