劉備(りゅうび)、張飛(ちょうひ)と義兄弟の契りを交わし、蜀の建国に大いに貢献した
関羽雲長(かんううんちょう)。
一時は関羽の力によって劉備が中国の覇者となるのでは…と思わされるぐらいの活躍を見せています。
結局は219年、樊城(はんじょう)の戦いにて、志半ばで処刑されてしまった関羽。
関家が蜀の中でも優遇されていたのはいうまでもありませんが、関羽の死後関家はどうなったのでしょう。
子孫たちも同じように、活躍を見せていたのでしょうか?
ということで、今回は関羽の残された子孫たちに迫ります!
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三人の息子たち
関羽の跡取りとして考えられるのは、彼の三人の息子たち。
それぞれどんな人たちだったのかを見ていきましょう。
関羽と共に処刑された関平
樊城の戦いで関羽と共に戦った関平。
若くして父と共に戦場へ出向いているところを見るに、息子の中では特に戦の才能に秀でていたのでしょう。
しかし関羽が処刑された際、関平も一緒に殺されてしまいます。
才能があったが故、若くして亡くなってしまうとは不運なものですね…。
諸葛亮(しょかつりょう)から期待された関興(かんこう)
関平が亡くなったこともあり、関羽の死後にその地位を継いだのが関興でした。
彼は武功こそ挙げていませんが、学問に秀でていたようで、諸葛亮に大層気に入られています。
諸葛亮といえば蜀の天才軍師で、関羽が浮足立ったときに手綱を引っ張っていた人でもあります。
諸葛亮が頭脳明晰で冷静な性格だったから、同じ性分の関興を気に入ったのかもしれませんね。
そのおかげもあって関興は若くして侍中(じちゅう)、中監軍といった高い地位を得ました。
しかしその期待も虚しく、地位を授けられた数年後には病死してしまいます。
彼は身体が弱かったから、戦には駆り出されなかったのでしょうか。
関平と二人で武闘派と頭脳派に分かれていたと思うと、関羽の良い部分を二つに分けたような、バランスの取れた兄弟ですね。
架空の息子?謎の多い関索(かんさく)
もう一人の息子は「三国志演義」に登場した関索。
彼は正史には名が残っていないため、長らくフィクションだと思われてきました。
しかし1967年に発見された「花関索伝」という書物により、「実在するのでは?」といわれるようになります。
いずれにしても、はっきりしたことはわからない人物です。
関羽の死後の関家
蜀の滅亡と共に孫の代でついえてしまう関家
関羽の後を継いだ関興は早々に病死しましたが、彼も二人の息子を残しています。
関統(かんとう)と関彝(かんい)です。
関統は劉備の息子である劉禅(りゅうぜん)の娘と結婚しました。
関羽は劉備の義兄弟ということもあり、関家の子孫たちも同じように厚遇されていたのです。
彼は地位にしてみても、騎兵を統率する中郎将(ちゅうろうしょう)に任命されています。
しかし関統は子宝に恵まれなかったため、結局関興の後継者となったのは関彝でした。
関彝は関興の息子ではありましたが、正妻の子ではなかったため、本来はその地位には就けないはずだったのです。
生まれで地位も決まってしまうような時代ですから、これはラッキーだったといえますね。
しかしそうもいっていられません…程なくして、263年に蜀は滅亡してしまうのです。
それと同時に魏の龐會(ほうかい)によって、関家の人間は皆殺しにされてしまいます。
龐會は父親を関羽に殺された恨みがあり、その矛先を関羽の子孫たちに向けたのです。
関家は滅亡していなかった?後世にも子孫が…
こうして関家の歴史は幕を下ろしたかのように見えました。
しかし、その後も関羽の子孫と見られる人物が、史上にはチラホラと登場しているのです。
その一人が、滅亡したとされる500年近く後の唐王朝の時代、宰相(さいしょう)を務めた関播(かんはん)。
宰相は日本でいう総理大臣で、国家の最高権力です。
時代は違っても、そこまで上り詰めるほどだったとは、関羽の血を引いていたというのもあながち間違いではないのかもしれません。
そしてそこからまた1000年近く経った清王朝の時代にも、子孫と見られる人物の名前が残されています。
しかもこの時代は関居斌(かんいひん)、関朝泰(かんちょうたい)、関霨(かんい)と、三人も登場するのです。
また伝承で子孫とされている関郎、関康之といった名前も挙がってきます。
彼らが本当に関羽の子孫であったかの真意は定かではありません。
しかし滅びたと思われていた関羽の一族が、1000年以上後になっても登場するというのはロマンを感じさせる話です。
きょうのまとめ
蜀では隋一の、そして三国時代でも屈指の強さを誇った関羽。
その子孫にしてもやはり人並み以上の才能を持っていたことがわかりました。
残念なのは、いずれも早死にしてしまったり、国が滅びてしまったりと、運に恵まれていないことでしょうか。
今回の内容を簡単にまとめてみると…
① 息子は戦、学問にそれぞれ秀でていたが、いずれも早死にだった
② 蜀の滅亡と共に、関羽の子孫も孫の代でついえたと思われていた
③ 唐や清の時代にも、関羽の子孫と思われる人物が確認されている
といった具合です。
一般的には蜀の滅亡と共についえたとされる関家。
歴史があまり長く続かなかったという希少性も、名家として語り継がれるゆえんでしょう。
関羽の子孫が長きに渡って繁栄していたら…そんな妄想を繰り広げるのもまた、歴史を学んでいく面白さでもありますね!
関羽雲長の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
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