確認されている天皇のうち、4代・3人目の女性天皇(2代目皇極天皇と3代目の斉明天皇は同一人物)
となるのが持統天皇です。
皆無ではなかったとはいえ、日本史上における女性天皇は珍しく、日本のトップに立った女性がどんな性格だったのか気になりますね。
タップでお好きな項目へ:目次
行動から知る持統天皇の性格
持統天皇が行なった事業や皇位に至った過程などから性格を想像してみましょう。
大事業を遂行
持統天皇は、天武天皇の皇后時代から夫を補佐して政治に参画していたことが史料によって明らかです。
天皇に即位した後も、過去に於いて推古天皇の摂政である聖徳太子のようにサポートする人物はいません。
つまり、持統天皇が行った政策は、実質的に統治者だった本人によるものです。
特に、
・藤原京への遷都
・飛鳥浄御原令の制定
といった天武天皇の政策を引き継ぎ実行した二本柱の事業は、持統天皇が賢明さとそれを実行できる強さを持った人物だったことがわかります。
のちに譲位をして孫が文武天皇として即位した後も、天皇と共に政務を執り、大宝律令という日本史上初めての本格的な法律を成立させています。
このことからも、持統天皇はかなり早い段階から長くポジティブに政治に関わっていた積極的な人物だったことがわかります。
子を思う気持ちと取った行動
686年に亡くなった天武天皇は、672年の壬申の乱で実の兄である天智天皇ら親族と争った経験から、自分の子供たちを争わせることだけは避けたいと考えていました。
そこで、生前にのちの持統天皇となる鸕野讃良皇后、そして母親の違う4人の皇子と2人の甥(天智天皇の息子たち)を集めます。
その中で皇后の実の息子は草壁皇子一人です。
そして天武天皇は草壁皇子を皇太子とする前提で、皇后を含めた皆に争わず助け合うことを誓わせたのです。
しかし、その後政治に参加していった大津皇子は非常に優秀で、681年に皇太子となった病弱な草壁皇子をしのぐほどの勢いとなってしまいました。
天武天皇が亡くなったあとも、文武両道で謙虚な美男子・大津皇子は多くの人々に慕われ、ダントツの人気。
そのままでは草壁皇子が次期天皇になれないかもしれません。
それに、大津皇子は皇后の姉と天武天皇との間の子であって皇后の実子ではないのです。
そこで皇后は、大津皇子が草壁皇子への謀反を計画した疑いで大津皇子と彼を擁護する人々を逮捕。
大津皇子を死に追い込みました。
しかし、大津皇子の死後に皇子以外の人々を釈放していることから考えても、最初から大津皇子だけを狙ったことは明らか。
自分の息子可愛さ余って、優秀な近親者であっても排除する冷徹さ、次期天皇に自分の血統を入れたかった皇后の徹底ぶりがわかります。
実現したいことは実現させる
ところが、そうまでして守った草壁皇子は、天皇に即位する前に早世してしまいます。
これは皇后にとって誤算だったでしょう。
そこで皇后は、自分の孫である軽皇子(のちの文武天皇)への皇位継承を考えます。
しかし、わずか7歳の少年は幼すぎ、やむなく軽皇子が天皇になるまでのつなぎとして皇后自ら持統天皇として即位したのです。
「やむなく」とはいっても、彼女の在位中の功績には上記を含め、かなりのハイレベルです。
自らが天皇となって夫の遺志を継ぎながら政務に邁進し、孫への政権の手渡しを実現した女性天皇、それが持統天皇です。
きょうのまとめ
自分の夫から孫へと権力を移行させるためのつなぎの天皇のつもりだったかもしれなかった持統天皇。
そんな持統天皇とは、
① 前向きに政治に関わっていく優れた頭脳を活かす積極性
② 権力を継承するために手段を選ばない大胆さと強さ
を備えた性格の人物だといえそうです。
それは男女に関わらず、その時代の一国を統べる者として有効な資質です。
そういう意味で、持統天皇はトップに立つに相応しい性格の女性天皇だったといえるでしょう。
その他の人物はこちら
飛鳥時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【飛鳥時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す