源義家とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

みなもとの義家よしいえ

名前を見れば、彼が源氏であったことはわかります。

しかし、源義家が何をした人物なのかを知る人はそれほど多くはないかもしれません。

源氏の子孫たちの誇りであり、

心の支えとなった英雄・源義家とはどんな人物だったのでしょうか?

 

源義家はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:河内国石川郡壺井(現在の大阪府羽曳野市壺井)
  • 生年月日:1039年(有力説)
  • 死亡年月日:1106年7月15日(享年68歳)
  • 河内源氏を源氏一門の中でも最強の一族にした文武両道の英雄。彼に従う人、後世の子孫にも広く崇敬された。

 

源義家 年表

年表

西暦(年齢)

1039年(1歳)河内国石川郡壺井の香炉峰の館にて源頼義の長男として誕生

1051年(13歳)前九年の役(1062年まで続く)が始まる。父と共に出兵

1070年(32歳)下野守となる

1079年(41歳)源重宗を官命により追討

1081年(43歳)
 9月検非違使と共に園城寺の悪僧を追補
 10月白河天皇の石清水八幡宮行幸で弟源義綱と護衛
 12月白河天皇の春日社行幸で警護(北面の武士の下地になった)

1083年(45歳)陸奥守むつのかみとなる。後三年の役で清原氏の内紛に介入、鎮圧

1088年(50歳)陸奧守を罷免される

1098年(60歳)受領功過定を通り、白河法皇の意向もあって正四位下に昇進。院昇殿を許される

1104年(66歳)弟の義綱と共に延暦寺の悪僧追補

1106年(68歳)死没

 

北面の武士の強さを見せた義家の戦歴

義家が活躍したころの平安時代は、藤原氏独占の摂関政治から白河院による院政に変わっていった変革期でした。

同時に、貴族の用心棒だった武士という新興勢力は、貴族を脅かす存在になりつつあり、河内源氏と呼ばれる一族の一員義家はそんな武士たちを象徴する存在でした。

「神の如く」戦う義家

伊予守・源頼義の長男として誕生した義家は、7歳で山城国の石清水八幡宮で元服。

「八幡太郎義家」と名乗りました。

武将として注目され、河内源氏が武闘派源氏として認知されるきっかけとなったのが、1051年から約12年続いた前九年の役です。

義家は朝廷の命令によって陸奧国の豪族である安倍賴時の討伐に父親に従って参戦。

たった7騎のところを敵200騎に囲まれても、馬に乗りながら見事な弓使いで戦い抜いたと言われる彼は「神のごとし」と絶賛されました。

出羽(秋田)の豪族清原氏の協力もあって、父親頼義が率いる源氏軍の完全勝利。

その後義家は、悪事を働く地方官吏の逮捕や追討、そして強訴を繰り返す悪僧たちの追補などに活躍しました。

正式な官職はなかったのにも関わらず、その実力を認められて白河天皇の警護をも務めました。

義家の実力は高く評価され、河内源氏が武士の中でナンバー1だという地位を獲得したのです。

武将義家のトップとしての度量

活躍の中で東国との結びつきも強くなっていた源義家。

何かと新興の武士たちに頼りにされる存在でした。

その例が1083年に起きた後三年の役です。

陸奧の豪族の清原氏の内紛とされるこの戦いでは、陸奧守だった義家が優れた軍略により戦いを終結させます。

ところが、朝廷はあくまでこの戦は私闘であるとの見方を示し、義家に恩賞を与えませんでした。

しかし、義家は私財を投じて自分と共に戦った配下の者たちの労に報いてやったのです。

これに感激した東国の武士たちは義家との信頼関係を一層強くしました。

この朝廷の義家に対する扱いについては、白河院が新興武士勢力のトップとして力をつけてきた源義家を警戒したと言う説もあります。

恩賞がないばかりか、陸奧守を罷免された義家はその後約10年税を納めることに苦しみ、それが理由で新たな官職に就くこともできない停滞時期を迎えました。

ビッグになった義家に白河院も

1098年にはようやく義家も税を納め終え、白河院に院昇殿を許されました。

実は白河院が強引にそうさせたとされ、公卿の中には反対者もいたようです。

しかし、その当時はもう源義家の武力の大きさに、誰もおおっぴらに異を唱えることは出来なかったのです。

そして何より白河院も当時頭を痛めていた僧兵対策として義家を頼るしかありませんでした。

源義家は1106年に68歳で亡くなりますが、その2年前まで悪僧の追補を行っています。

そして義家の活躍が、白河院の警護をする北面の武士の地位を向上させたと言われています。

 

義家の人柄がわかる「雁行の乱れ」の前の逸話

後三年の役で行軍をしていた義家は、上空に飛ぶ雁の群れが整然と並ばず、乱れて飛んでいることから敵の伏兵に気づき、

先手を打って壊滅させることに成功しました。

これは戦における義家の鋭さを表わすエピソードですが、実はその前にもう一つの話しがあります。

前九年の役で活躍して大評判だった義家に対し、学者兼兵法家の大江匡房おおえのまさふさ

「器量は賢き武者ねれども、なお軍の道を知らず」

と厳しく評しました。

そのことを知った義家は、怒ることもなく、むしろ頭を下げて匡房の元へ軍学を学びに訪れた

と言います。

そして、そこで学んだことが、後三年の役の戦いで活かされたのでした。

決して思い上がらず、謙虚さをも持った武士としての義家を讃える話しです。

 

きょうのまとめ

ここでは、武闘派源氏の祖・源義家についてご紹介いたしました。

源義家とは

① 神のように戦い、河内源氏の強さを世間に知らしめた武者

② 勇敢さに加え、慈愛と謙虚さを持ち合わせた武士の鑑

③ 北面の武士の地位を向上させた新興武士の力のシンボル

でした。

確かに、後世の武士のお手本となるような武将だと言えそうです。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku