伊藤博文とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

近代日本のカタチを作ったのは、

伊藤博文と言われています。

実際に海外へ赴き、明治憲法の草案や内閣制度の導入などを行ったからです。

さて、そんな伊藤博文とはどんな人物だったのでしょうか。

今回は伊藤博文の生涯について、簡単にまとめました。

 

伊藤博文はどんな人?

プロフィール
伊藤博文

出典:Wikipedia

  • 出身地:周防国束荷村すおうのくにつかりむら(現在の山口県光市)
  • 生年月日:1841年9月2日
  • 死亡年月日:1909年10月26日(享年70歳)
  • 日本の近代化のために明治政府の土台を築いた人物。初代内閣総理大臣などを務めるも暗殺で命を落とす。

 

伊藤博文 年表

西暦(年齢)

1841年(1歳)周防国束荷村に生まれる(幼名、利助)

1857年(17歳)松下村塾に入る

1862年(22歳)英国公使館焼き討ち

1863年(23歳)英国に密航留学する

1864年(24歳)帰国

1868年(28歳)兵庫県知事に就任する

1871年(31歳)岩倉使節団の一員として欧米を歴訪する

1873年(33歳)帰国

1885年(45歳)初代内閣総理大臣に就任する

1888年(48歳)初代枢密院議長に就任する

1889年(49歳)大日本帝国憲法発布

1892年(52歳)第二次伊藤内閣発足

1894年(54歳)日清戦争勃発

1898年(58歳)第三次伊藤内閣発足

1900年(60歳)立憲政友会の総裁に就任する

1901年(61歳)第四次伊藤内閣発足

1905年(65歳)初代韓国統監に任命される

1909年(69歳)韓国統監を辞任。ハルビンで暗殺される

 

貧しい農民の子から日本近代化のリーダーへ

松下村塾で学ぶ

伊藤博文は現在の山口県光市に、貧しい農民の子として生まれました。

ですが父親が足軽の伊藤家に養子に入ったことで、彼の人生は大きく変わりました。

武士といえども身分の低い伊藤は、藩校に入ることはできませんでした。

しかし吉田松陰よしだしょういんの教える松下村塾しょうかそんじゅくでは、身分関係なく学ぶことができたました。

伊藤はそこで、高杉晋作や久坂玄瑞くさかげんずいらとともに学びます。

日本を近代化へ導く

明治維新後は、26歳にして兵庫県知事に就任しました。

その後は木戸孝允きどたかよしの腹心として、貨幣制度の改革や鉄道の開通などに携わっています。

そして岩倉使節団の副使として欧米へ派遣され、実際に現地の文化を肌で感じることになります。

そこで気づいたことは、日本の近代化の必要性。

帰国した伊藤は、近代化に必要な憲法を作るため、再びヨーロッパへと調査に向かいました。

現地で得た知識や経験を基に、伊藤は国内で様々な改革に着手します。

・宮中の改革

・太政官制の廃止

・内閣制度の導入

・優秀な人材を登用するための官僚組織づくり

などです。

伊藤自身も、初代内閣総理大臣に就任しました。

これらのベースを作り上げ、いよいよ大日本帝国憲法が発布されました(当時首相は黒田清隆)。

伊藤はその後3回(全4回)、内閣総理大臣を務めます。

その中では帝国大学(現東京大学)の設立・治外法権の撤廃・下関条約※への調印などを行いました。

日清戦争(1894~95)の講和条約のことです。

 清国の代表・李鴻章りこうしょうらと山口県下関市で調印したので、こう呼ばれています。

韓国統監に

内閣総理大臣を辞した伊藤は、初代韓国統監に任命されます。

当時の日本は韓国から外交権を奪い、保護国としていたのです。

伊藤の着任後、ハーグ密使事件※が起こります。

そこで伊藤は皇帝を退位させ、韓国の軍も解散させました。

1907年、オランダのハーグでバンコク平和会議が開催されました。

そこへ大韓帝国の皇帝・高宗こうそう(コジョン)が独立の回復を訴えるため、密使を送りました。

3年半ほど統監を務め、伊藤は帰国して枢密院議長となりました。

そして1909年10月、ロシア蔵相との会談を終え、満州のハルビン駅に降り立った伊藤に3発の銃弾が撃ち込まれました。

犯人は韓国の独立運動家・安重根あんじゅうこん(アンジュングン)とされています。

日本の近代化の礎を築いた伊藤博文は、東京・日比谷公園で国葬が営まれ、盛大に送り出されました。

 

伊藤博文にまつわるエピソードや伝説

放火や殺しも

伊藤博文は暗殺されたイメージが強いですが、実は本人もかつて人を殺しています。

幕末、長州出身の若者は尊王攘夷に燃えていました。

高杉晋作をリーダーとした彼らは、品川御殿山に建設中の英国公使館に放火しています。

その時、実際に火をつけたのは井上馨いのうえかおるだったといいます。

さらに国学者の塙次郎はなわ・じろうという人物が、

過去の廃帝(過去に強制的にやめさせられた天皇)について調べているという噂を聞きつけます。

そこで他の長州藩士とともに塙を待ち伏せし、「国賊!」と叫んで殺したそうです。

若い頃の伊藤(当時は俊輔という名前)は随分過激だったようです。

フグの解禁

今日、私たちがフグを食べれるのは、実は伊藤博文のおかげということをご存知でしょうか。

中毒死を防ぐために豊臣秀吉がフグを食べるのを禁じて以来、江戸時代においても禁じている藩が多かったようです。

フグと言えば山口県の下関が有名ですが、庶民の間ではそれまで密かに食されていたそうです。

しかし、春帆楼というお店の女将が打ち首覚悟で伊藤にフグを出したところ、伊藤はそ美味しさに驚いたといいます。

これがきっかけで、県内のフグ食が解禁されたそうです。

 

きょうのまとめ

今回は明治時代、国家の礎を気づいた伊藤博文について簡単にご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。

伊藤博文とは?

① 日本の近代化の礎を築き、初代内閣総理大臣や韓国統監などを務めた

② 満州のハルビン駅で暗殺された

③ 若い頃は過激な尊王攘夷活動をしていた

④ フグの美味しさに驚き、解禁した

こちらのサイトでは、他にも伊藤博文に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!

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