伊藤博文は韓国併合反対派だった!暗殺が裏目に出た?

 

1910年、当時の日本政府は韓国(大韓帝国)を併合しました。

このことを韓国併合といいます。

しかし、実はこれにブレーキをかけていた人物がいました。

今回は、韓国併合とその人物について簡単にご紹介していきます。

初代韓国統監・伊藤博文の暗殺

内閣総理大臣を4度も務めた伊藤博文は、1905年(明治38)11月、韓国へと渡ります。

それは大韓帝国の初代皇帝・高宗(こうそう/コジョン)に対して、第二次日韓協約の締結を迫るためでした。

この協約は、韓国側では乙巳(いっし)条約と呼ばれているそうです。

第二次日韓協約は「 韓国から外交権を取り上げ、日本の保護国とする 」という内容でした。

そしてその翌月、韓国には統監府という日本側の機関が設置され、そのトップに伊藤博文が就任しました。

これらの事実を振り返ると、伊藤は韓国を植民地化した最大の推進者と考えられます。

そんな伊藤は1909年10月26日、韓国の独立運動家・安重根(あんじゅうこん/アンジュングン)の銃弾に倒れました。

瀕死(ひんし)の伊藤は狙撃したのが韓国人であることを知ると、こう言ったといいます。

馬鹿な奴だ 」と。

伊藤博文が韓国統監を辞任した理由

日本の支配下に置かれつつあった韓国の人から見ると、伊藤博文は許せない存在であったことは容易に想像できます。

しかし、そんな人々にとって最悪な結末である韓国併合に待ったをかけていたのも、

伊藤博文だと知っていたら事態は変わっていたかもしれません。

伊藤は併合強硬派の山県有朋(やまがた・ありとも)らとは違い、併合には否定的であったと言われています。

伊藤の考えはこうでした。

ロシアから韓国を守るために近代化を推進し、自立できるまでは日本で保護する。

例え併合するとしても、一定の自治権を与えるとしていたようです。

強引に併合を行えば、韓国人から強い反発を受けることを予想していたからです。

しかし、当時の日本政府は韓国を併合するという方針を決定し、それが理由で伊藤は統監を辞任していました。

そこへ暗殺事件が起きたのです。

これによって、それまでは伊藤に遠慮していた強硬派が、主導権を握ることになります。

そして伊藤の死後からわずか10カ月後、韓国は日本に併合されることになってしまいました。

伊藤博文の暗殺は、実は裏目に出てしまっていたようです。

きょうのまとめ

今回は、伊藤博文と韓国併合についてご紹介しました。

① 当時の日本は第二次日韓協約を締結し、韓国を保護国とした

② 伊藤博文は初代韓国統監に就任した

③ 伊藤博文は韓国併合に反対だったが独立運動家によって暗殺されてしまった

こちらのサイトでは、他にも伊藤博文に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!

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