明治天皇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「大帝」とも呼ばれるほど、功績を残した

明治天皇

確かに、歴代天皇とは明らかに異なる存在でした。

それでは具体的に、明治天皇とはどんな人物だったのでしょうか。

今回は明治天皇の生涯と有名なエピソードについて、簡単にまとめてみました。

 

明治天皇はどんな人?

プロフィール
明治天皇

出典:Wikipedia

  • 出身地:京都
  • 生年月日:1852年11月3日(太陽暦)
  • 死亡年月日:1912年7月30日(享年61歳)
  • 第122代天皇(在位1867~1912年)。日本初の立憲君主。

 

明治天皇 年表

年表

西暦(年齢)

1852年(1歳)京都・中山忠能邸に生まれる(幼名、祐宮さちのみや)。

1856年(5歳)宮中に参内する。

1860年(9歳)親王宣下。睦仁の諱を賜る。

1866年(15歳)孝明天皇崩御

1867年(16歳)践祚の儀。大政奉還。王政復古の大号令。

1868年(17歳)鳥羽・伏見の戦い。五箇条の御誓文発布。即位の大礼。元号が明治となる。東京奠都(てんと)。一条美子入内の儀。

1872年(21歳)九州・西国巡幸

1876年(25歳)奥羽・函館巡幸

1878年(27歳)北陸・東海道巡幸

1879年(28歳)明宮嘉仁親王(後の大正天皇)誕生

1881年(30歳)北海道・東北巡幸

1885年(34歳)内閣制度開始

1889年(38歳)大日本帝国憲法公布

1894年(43歳)日清戦争勃発

1895年(44歳)日清講和条約調印

1902年(51歳)日英同盟協約締結

1904年(53歳)日露戦争勃発

1905年(54歳)日露講和条約調印

1910年(59歳)韓国併合

1912年(61歳)崩御。大喪の儀。

 

明治天皇の生涯簡単まとめ

明治天皇は、第121代孝明天皇と中山慶子よしことの間に誕生しました。

幼名は祐宮さちのみやといいます。

若くして幕末の動乱に巻き込まれる

誕生地は母方の祖父で権大納言・中山忠能ただやすの屋敷でしたが、

5歳になった祐宮は宮中に参内し、以後は禁裏きんり御所内で暮らすことになります。

その後、英照皇太后(孝明天皇の正室)の実子として育てられました。

 

また9歳になると立太子宣下りったいしせんげの儀が行われ、

睦仁むつひとといういみなを賜り、皇太子となります。

そして15歳の頃、父の孝明天皇が37歳という若さで崩御ほうぎょ

翌月には践祚せんそ(皇位を継ぐこと)しています。

 

またその頃、薩摩・長州と公家たちが連携し、時代は倒幕へと勢いづきました。

すると時の将軍・徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を申し出ます。

そして対する討幕派は王政復古の大号令を発し、新政権樹立を宣言しました。

 

翌年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発した際には仁和寺宮嘉彰親王にんなじのみやよしあきしんのう

征討大将軍に任命し、錦の御旗(※1)を授けています。

※1 この旗を持っているほうが天皇側の軍ということを意味します。

これにより新政府側が官軍に。

一方、賊軍となってしまった旧幕府側には大きな動揺を呼び起こしました。

新時代の天皇に即位

1868年、即位の大礼が行われ、天皇に即位しました。

居を京都から東京へと移し(以後、東京が日本の首都となる)、

一条美子(はるこ/後の昭憲皇太后)を妃として迎えました。

翌年には箱館戦争(五稜郭の戦い)(※2)も終結しています。

※2 戊辰戦争の最後の戦い

 

明治天皇は全国各地の巡幸じゅんこう(天皇が各地を回ること)や外国人の要人とも謁見を行っています。

天皇自らがこれらのことをするなど、それまでは考えられないことでした。(※3)。

まさに明治という、新しい時代を迎えたと言えます。

※3 在位中の天皇が外国人と接するのは、平安時代の宇多天皇以来と言われています。

日清・日露戦争

大日本帝国憲法第11条により、天皇は統帥権とうすいけん(軍隊の指揮統率)を持ちました。

そのため日清戦争が起こると、広島に置かれた大本営で指揮を取るため、およそ7カ月滞在しています。

ですが明治天皇自身は開戦に反対でした。

 

またそれから10年後、日露戦争が起こります。

しかしこのときも、天皇自身は戦争に反対しています。

 

さて、日露戦争で活躍した人物といえば、陸軍の乃木希典と海軍東郷平八郎です。

一時は二人とも司令官の座から外そう、という話が持ち上がったことがあります。

ですが明治天皇は、二人の続投を支持しました。

崩御

日露戦争が終わって7年、明治天皇は心臓麻痺によって崩御(享年61歳)。

それから2ヵ月が立ち、大喪たいそうの儀(天皇の葬儀)が行われました。

この夜、乃木希典が妻とともに殉死しています。

 

明治天皇にまつわるエピソードや伝説

それでは、明治天皇にまつわる有名なエピソードを3つご紹介します。

歴代天皇として初めてアレを見た

歴代天皇として初めて、太平洋富士山を見たのは明治天皇です。

意外かもしれませんが、歴代天皇は京都の外へ出ることは、ほぼなかったからです。

 

1868年9月、明治天皇は京都から東京へと出発しました。

岩倉具視や木戸孝允らを含む三千人以上の者たちを連れて、東海道を進みます。

10月には浜名湖近く、白須賀しろすか宿の汐見台から太平洋を、

さらに大井川の金谷台からは富士山を見ています。

 

その時、明治天皇は数え年でも17歳。

初めてみる景色に、心躍らせたのではないでしょうか。

崇徳上皇の祟りを恐れた?

かつて、天皇家を呪いながら亡くなった人がいます。

呪っていたのはこともあろうか、天皇家出身の崇徳すとく上皇です。

 

崇徳上皇は保元の乱(1156年)で敗れ、讃岐に流された人物。

配流先で行った写経を寺に納めて欲しいと、後白河天皇のもとへ送りました。

しかし後白河天皇は、呪いが込められているのではないか、と受け取りを拒否したのだとか。

 

すると崇徳上皇は大激怒

舌を噛み、返された経文に血で呪いの言葉を書いたそう。

さらに食事を拒み、髪や爪も伸ばし放題。

そして天皇家に対する呪いの言葉を唱え続けて亡くなったということです。

おおお……。

 

さて、するとどうでしょう。

崇徳上皇の死後、平氏政権が誕生し、さらに源頼朝が鎌倉幕府を開いています。

朝廷が武士に政権を奪われたのです。

これは崇徳上皇の呪いだ、と当時の人びとは信じていたようです。

 

それから約700年後、ようやく政権が幕府から天皇に移ることに。

そこで明治天皇は崇徳上皇の命日に、香川県の墓所に勅使ちょくし(天皇が送る使者)を派遣。

上皇の祟りを鎮め、自身の政権を守ってもらえるように祈願したということです。

質素倹約の精神

明治天皇の普段の生活ぶりは、とにかく質素だったことをご存じでしょうか。

鉛筆はどんなに短くなっても、使えるまで使い、

靴も新品ではなく、古いものをわざわざ修理して履き続けました。

また書類などを分類する箱も、三越で購入したシャツの空き箱を使っていたのだとか。

 

さらには大正天皇の皇太子時代に完成した東宮御所を見て、

明治天皇は「贅沢だ」と不機嫌になったそうです。

設計者の片山東熊とうくまは、これに大変ショックを受けたといわれています……。

そんな東宮御所は現在、「迎賓館赤坂離宮」として一般公開されています。

かわいそうな東熊の大作を、ぜひ一度はご覧になってくださいね。

 

きょうのまとめ

今回は明治天皇の生涯について、簡単にご紹介しました。

明治天皇とは?

① 明治天皇は幕末の混乱を経て、新時代の天皇に即位した

② 巡幸や外国人との謁見、太平洋・富士山を見るなど、それまでの天皇なら考えられないことを次々と行った

③ 天皇家を呪った崇徳上皇を鎮め、新政権の無事を願った

④ 質素倹約の精神を大切にしていた

こちらのサイトでは他にも、幕末・明治にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 

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