日本の中世史上、女性では最も名前が知られる
北条政子。
激しい人生を送りましたが、死後の彼女は鎌倉の寿福寺で静かに眠っています。
タップでお好きな項目へ:目次
北条政子の墓のある寿福寺
北条政子(菊池容斎画、江戸時代)
出典:Wikipedia
寿福寺は鎌倉五山第三位の権威あるお寺です。
源頼朝の菩提を弔うために政子が開基しました。
寺の場所と由来
寿福寺へは、鎌倉駅から徒歩10分程度で到着します。
この場所にはかつて源頼朝の父、源義朝の邸宅がありました。
そのため鎌倉入りした頼朝が、自分の館をこの土地に建てようとしたこともあったそうです。
父祖伝来の源氏の地だったということで、北条政子にも特別な思いのある場所だったと思われます。
源頼朝が没した翌年の1200年に建立された寿福寺。
初代住職は臨済宗を日本にもたらした栄西でした。
栄西はその著書『興禅護国論』の中で、禅宗をさかんにすることが国家の隆盛に重要であると記しました。
そのため、天台宗の総本山である比叡山から圧力を受けた栄西は、鎌倉にのがれてきたのでした。
北条政子がこの高名な僧を歓迎し、源頼朝の菩提を弔うために寿福寺を建立したのです。
政子の墓
政子の墓は、寿福寺の裏山の洞穴のような中にあります。
「やぐら」と呼ばれるほら穴のような横穴墳墓の中に五輪塔があります。
こじんまりした墓の様子は、鎌倉幕府を支えた女傑の墓としては少々地味な感じもしますが、寿福寺自体は美しく格調の高い寺院です。
そこに静かに眠る政子は、ゆっくり休める今を喜んでいるのかも知れません。
すぐ近くには、彼女の息子・源実朝の五輪塔も同様の「やぐら」の中に祀られています。
暗殺された実朝には秦野市に首塚があるので、こちらの墓は胴塚ということになりそうです。
もう一つの政子の墓
剃髪した出家姿の北条政子を表わす北条政子像。
写真で見かけた方も多いでしょう。
それが安置されているのが鎌倉市大町にある安養院という浄土宗のお寺です。
この寺は1225年に、政子が頼朝の冥福を祈って建てた長楽寺が前身といわれます。
二度の焼亡の後、頼朝に仕えた田代信綱が建立した田代寺の観音堂を再建し、政子の法名である安養院を寺名としました。
本堂の裏手には重要文化財の宝篋印塔と呼ばれる大小二基の石塔があります。
鎌倉最古の石塔とされ、小さい方のものが北条政子の墓だといわれています。
政子と頼朝の地
政子の墓からそう遠くない場所に、夫・源頼朝の墓もあります。
島津家に再建された頼朝の墓
鶴岡八幡宮から歩いて10分ぐらいのところに頼朝の墓があります。
昔、法華堂と呼ばれたところが明治維新に白旗神社と改められ、墓は同社のすぐ横の階段を上ったところです。
法華堂にはもともと頼朝が葬られていました。
現在の墓は、1778年に薩摩藩の島津重豪が再建したもの。
島津家初代の島津忠久は頼朝の庶子(妾の子供)と伝わっており、その関係から頼朝の墓が建てられました。
この辺り一帯は、鎌倉幕府がおかれた場所。
多くの源氏、北条氏ゆかりの寺社・旧跡が残っています。
政子と頼朝の恋の名残り伊豆山神社
熱海にある伊豆山神社をご紹介しておきましょう。
ここは頼朝が崇敬した神社で、流人として伊豆で暮らした頼朝が源氏再興を祈願した神社でした。
同時にこの地は、北条政子と源頼朝の秘密のデートスポット。
ここには二人が坐って語り合った「腰掛け石」が残されています。
さらに前述の法華堂で営まれた頼朝の一周忌には、北条政子が奉納した梵字の曼荼羅がありましたが、現在は伊豆山神社に残されています。
この曼荼羅のすごいところは、政子自らの髪の毛を使って刺繍したところ。
頼朝の成仏を願って作ったこの曼荼羅には政子のパワーが込められています。
おわりに
政子が生きている間には、
夫婦であった政子と頼朝の間には派手な愛憎劇や喧嘩、
そして息子たちの暗殺や戦という血なまぐさい出来事が沢山ありました。
しかし、残された政子ゆかりの地はいずれも壮麗さよりも落ち着きのある質素な品のよい場所ばかり。
実際派手な生活をすることがなかったと言われる政子の堅実な一面が現れているようです。
一体政子という人物は、いくつの顔を持っていたのでしょうか。
関連記事 >>>> 「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」」
北条政子の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「北条政子とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
その他の人物はこちら
平安時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【平安時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す