「天皇」という響きから、どういった姿を想像しますか。
宮中で和歌などをたしなむ、雅なイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。
ですが、かつては鎌倉幕府を武力で倒そうとして、島流しになった天皇もいるのです。
今回は後醍醐天皇が島流しになった理由と、その場所について紹介していきます。
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後醍醐天皇が島流しになった理由
まず、なぜ後醍醐天皇は鎌倉幕府相手に戦おうと思ったのでしょうか。
そもそも後醍醐天皇は、幕府が朝廷の政治に口を出してくることに不満を持っていたのです。
両統迭立と文保の和談
当時の朝廷は、二つのグループに分かれていました。
「持明院統」と「大覚寺統」です。
この二つのグループが対立しているところへ、鎌倉幕府が介入。
両グループから交替で天皇を出せばいいではないか、と提案しました。
この仕組みを「両統迭立」といいます。
さらに鎌倉幕府は両統に対して和解(このことを当時の元号を取って「文保の和談」といいます。
)を提案。
そして大覚寺統から後醍醐天皇が皇位につきましたが、対立は解消しませんでした。
このように幕府に実権を奪われたことを良く思わなかった後醍醐天皇は、
天皇中心の政治を行うために倒幕計画を立てます。
倒幕計画の発覚
後醍醐天皇は二度、倒幕計画を立てています。
一度目を正中の変、そして二度目を元弘の変といいます。
正中の変
1324年、後醍醐天皇は側近の日野資朝と日野俊基と倒幕計画を図りました。
しかしこれは密告されてしまい、日野資朝は佐渡島(現在の新潟県)へと流されました。
一方、後醍醐天皇には何のお咎めもありませんでした。
元弘の変
1331年、後醍醐天皇は再び倒幕計画を立てます。
ですが、またもや密告によって失敗。
後醍醐天皇は京都脱出を図り、笠置山で挙兵するも捕らえられてしまいました。
隠岐へと島流しになるも脱出
鎌倉幕府から謀反人とされた後醍醐天皇は1332年、隠岐に流されます。
隠岐は現在の島根県にあり、日本海に浮かぶ比較的大きな島。
古くから流罪となった人が送られる場所でもありました。
ですが、不屈の天皇は島流しになっても諦めませんでした。
翌年には隠岐を脱出し、現在の鳥取県で挙兵しています。
これに味方した足利尊氏(もともと足利高氏でしたが、後醍醐天皇の名「尊治」から一字与えられて「尊氏」となりました。)は幕府の機関・六波羅探題を攻め落とし、
さらに新田義貞も鎌倉に攻め入って幕府を滅亡させました。
一見失敗に見えた後醍醐天皇の倒幕計画でしたが、その後の歴史を大きく変えることになります。
きょうのまとめ
今回は後醍醐天皇が隠岐へと島流しになった過程について、簡単にご紹介しました。
② 計画は失敗し、隠岐に島流しとなった
③ 隠岐から脱出し、倒幕の動きを加速させた
こちらのサイトでは他にも、南北朝の動乱についてわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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