イタリアのルネサンス期を代表する画家のひとり、
サンドロ・ボッティチェリ。
あまりにも有名な《春(プリマヴェーラ)》や《ヴィーナスの誕生》などは、芸術に詳しくない方でも、どこかで一度は目にしているのではないでしょうか。
華やかな作風が現在でも多くの人に愛される一方で、晩年はその作風ががらりと一転。
彼の人生も大きく変化していったのです。
ボッティチェリとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。
今回は、主な功績やエピソードをもとに彼の生涯について辿っていきましょう。
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ボッティチェリはどんな人?
- 出身地:イタリア フィレンツェ
- 生年月日:1445年
- 死亡年月日:1510年5月17日(享年65歳)
- イタリアのルネサンス初期を代表する画家。
ボッティチェリ 年表
西暦(年齢)
1445年(0歳)イタリアのトスカーナ州フィレンツェ、ポルチェッラーナ通りで誕生。
1461年(16歳)フィリッポ・リッピに弟子入りし、約6年の間画家修業に励む。
1470年(25歳)師が死去したことで独立し工房を構える。
1475年(30歳)《東方三博士の礼拝》を制作。
1477年(32歳)《プリマヴェーラ》を制作。
1481年(37歳)システィーナ礼拝堂の壁画を制作するため、ローマに招かれる。約1年間滞在。
1482年(38歳)《パラスとケンタウロス》を制作。
1484年(40歳)《ヴィーナスの誕生》を制作開始。
1501年(56歳)《神秘の降誕》を制作。
1510年(65歳)フィレンツェで死去。
ボッティチェリの生涯
ここからは早速、ボッティチェリの主な功績からその生涯を見ていきましょう。
ルネサンスとメディチ家
1445年(1444年説もあり)にイタリアのフィレンツェで誕生したボッティチェリ。
彼が生まれ活躍した時代は、まさにルネサンス期の真っ只中でした。
「ルネサンス」とは「再生」や「復活」という意味を持つフランス語で、14世紀にイタリアで始まった芸術及び文化活動に付けられた名称です。
ルネサンスが再生、復活させたのは、古代ギリシャやローマ時代に盛んだった芸術文化の特徴でした。
主に彫刻や壁画などに見られるように、古代ヨーロッパ世界の芸術と言うのは自然やあるがままを愛して尊敬し、その模倣にこだわる特徴があります。
しかし中世に入ると、キリスト教の普及によって決まりが増え、ほとんど布教目的の絵画や壁画しか描かれなくなっていきました。
それも時代が進むにつれ、徐々に神中心の世界から人間中心の世界に移行していったことで、再び古代の人々の価値観に注目が集まったのです。
ボッティチェリは、そんなルネサンスが花開いたフィレンツェで10代半ばの時に修業を始め、20代半ばで独立して自身の工房を構えました。
当時の芸術家達は、どこかの機関や施設、またはパトロンから依頼された作品を注文通りに制作するという過程が一般的でした。
フィレンツェにおいて、芸術家たちにとって特に重要なパトロンとなったのがメディチ家です。
莫大な富を築き権力を掌握していたメディチ家は、実質的にフィレンツェを支配している一族でした。
中でも、若く才能ある芸術家たちを積極的に支援していたのが当主のロレンツォです。
彼にその才を認められたボッティチェリは、独立以前から様々な作品を依頼されていました。
有名なものには、メディチ家の人々や画家自身の肖像を描き込んだ《東方三博士の礼拝》などがあります。
《東方三博士の礼拝》
ルネサンスの華やかな画家
メディチ家の庇護の下、その後も
・《パラスとケンタウロス》(1482年頃)
・《ヴィーナスとマルス》(1483年)
・《ヴィーナスの誕生》(1486年頃)
等、名だたる名作を遺しているボッティチェリ。
これらの作品に共通するのが、作品の主題にギリシャ神話などの「キリスト教以外のモチーフ」を採り上げていることです。
まさにルネサンス期の芸術家らしい、新しく挑戦的な試みでした。
さらに、
・繊細で華やかな風景描写
・髪や衣服の波打つ表現
等、その描き方の面でも、写実に囚われないエンターテイメント性を感じる華やかさに満ちています。
その一方でボッティチェリは、宗教画でも重要な功績を遺しています。
30代後半を迎えた1481年には、キリスト教の総本山であるヴァチカンから、システィーナ礼拝堂のための壁画制作を依頼されています。
当時活躍していた他の画家たちと共に、彼は約1年間ローマに滞在し、
・《反逆者たちの懲罰》
といった作品を遺しています。
《春(プリマヴェーラ)》
《モーセの試練》
晩年の敬虔な画家
ローマでの大仕事を終えてフィレンツェに戻ってからのボッティチェリは、どちらかと言うと宗教画の制作に追われるようになりました。
そして1490年代に入る頃には、その作風は以前の華やかで明るい印象から、徐々に緊張感ある堅いものへと変化していくのです。
鮮明で動きのある表現が特徴の線描表現に、徐々に神秘的な要素が加わるようになります。
この当時のボッティチェッリは、長年の良き理解者であったロレンツォを亡くし、その後メディチ家の失墜で最大のパトロンを失っていました。
そこに台頭していたのがドミニコ会修道士のサヴォナローラと言う人物です。
彼が説く厳格で過激な信仰思想にすっかり心酔していったのです。
ルネサンス期特有の華美な装飾性を糾弾するサヴォナローラに影響を受けたボッティチェリ。
50代から晩年には中世までの様式に逆戻りした様な作風に変化し、人気は衰えすっかり表舞台から姿を消してしまいました。
特に最晩年の約5年間の足跡については、私たちはほとんど辿ることができないまま、1510年5月17日に亡くなったと聞かされるのみです。
ボッティチェリにまつわるエピソード
ここでは、ボッティチェリについてもう少し探るべく、彼にまつわる裏話をご紹介します。
フィレンツェにある現在のポルチェッラーナ通りで、皮なめし業を営む一家に誕生したボッティチェリ。
4人兄弟の末っ子だった彼は、父親が遺した13歳頃の記録によると、年の割には周囲よりも成長が遅くて病弱だったようです。
かつてはそんな儚さを感じさせる少年だった彼ですが、そのイメージとは真逆とも言える意味を持つのがこの「ボッティチェリ」と言う名前。
イタリア語では「小さな樽」を意味するのです。
実はボッティチェリ、本名をアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・バンニ・フィリペーピと言います。
どこにもボッティチェリなんて入っていません。
ではどこからこの名が来たのかと言うと、もとは彼の長兄についたあだ名でした。
意味からも想像できるように、お兄さんは樽の様にまるまると太っていたのです。
どういう経緯かこのあだ名を引き継いでしまった末っ子のアレッサンドロは、すっかりその名で後世の人々にも認知されることになりました。
しかし、先程ご紹介した《東方三博士の礼拝》の右端に描かれている自画像を観てみると、心なしかふくよかにも感じられます。
きょうのまとめ
今回はイタリアルネサンス期の初期の画家、ボッティチェリについてその生涯を主な功績やエピソードと共にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
最後に、ボッティチェリとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると
① 15世紀に活躍したイタリアルネサンスの初期を代表する画家のひとり。
② メディチ家の庇護の下、彼らが支配するフィレンツェで活躍した。
③ 晩年は神秘主義に傾倒し、人気を失くして表舞台から姿を消した。
ルネサンス芸術が花開いたフィレンツェで、特にその初期に重要な絵画を遺したボッティチェリ。
実は彼は修業時代、7歳年下のレオナルド・ダ・ヴィンチと共に師匠の下で切磋琢磨していました。
才能ある者同士のライバル意識は、やがて大きな芸術運動を歴史に刻むことになったのです。
【参考文献】
・ブリタニカオンラインジャパン 大項目事典「ボッティチェリ」
・水野千依編『西洋の芸術史 造形篇Ⅰ 古代から初期ルネサンスまで』藝術学舎、2013年
・サンドロ・ボッティチェリ-世界の歴史上の美術
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjKxL-r_bnzAhWCZ94KHR6mCUQQFnoECAQQAQ&url=https%3A%2F%2Fhistory-univ.sakura.ne.jp%2Fart%2Fearlymodern%2Feurope%2Fsandro_botticelli.html&usg=AOvVaw0xMSLuFZeIhzgDtWpbDkJp
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