室町幕府第3代将軍、
足利義満は金閣寺を建てたことで有名な人ですね。
日本国内では将軍や太政大臣と呼ばれた足利義満は、
外国からは「日本国王」と言われたそうです。
将軍は天皇に次ぐ位ですが、
国王となると日本でトップということになりますね。
なぜ義満は、日本国王と呼ばれたのか調べてみましょう。
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義満以前の「日本国王」とは
日本国王とは、その名の通り日本の国王と言うことです。
中国では日本の統治者を「倭王」と呼んでいました。
しかし唐の時代になり、日本国王が使われるようになりました。
南北朝時代、懷良親王が日本国王とされていました。
懷良親王は後醍醐天皇の皇子で、西日本の統治をした人物です。
中国から見たら「天皇」、「日本国王(皇子)」、「将軍」の順にトップを決めていたようです。
やはり「天皇」が1番なんですね。
室町時代の日本国王
足利義満は、天皇は宗教的な象徴であると説明し
自分が日本国王となっています。
この時の中国、明は天皇を何の権力もないただの宗教的な宗主と考えていたようです。
中国にとっての王は、単なる朝廷の貿易相手程度の意味合いしか持っていませんでした。
義満に「日本国王」の名を与えたのは、
明の2代皇帝の建文帝と3代皇帝の永楽帝です。
特に義満は永楽帝に気に入られていたようです。
この永楽帝は甥である建文帝を殺害して帝となった人です。
中国でも色々ありそうですね。
義満に「日本国王」の名を取られてからは、
当時の朝廷は明との独占貿易をまで取り上げられてしまいました。
国内での反発
当然天皇でもない義満が日本国王を名乗るなど、朝廷はもちろん公家も反発しました。
しかし当時の義満はそんなものを跳ね返せるほどの絶大な権力を持っていましたので、
面と向かって義満に文句を言う人はいませんでした。
そんな中で1番反発を強めていたのが義満の後継者である義持でした。
彼は義満の死後、皇族の扱いをされることを拒み、明の使節とも取り引きしないほどでした。
親子なのに考え方はまるで違ったようですね。
きょうのまとめ
「日本国王」の地位を大いに貿易に利用し、
さらなる権力と富を得ていた足利義満はある意味ではずる賢く、
ある意味では偉大な人であったと言えるでしょう。
でも実の息子からよく思われていなかったことは悲しいことです。
義満は死んだ後で、人々の心がわかったのかもしれませんね。
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