越前の国を治めた名門、朝倉家。
その朝倉家の最後の当主が
11代当主・朝倉義景です。
織田信長と敵対し、信長の妹であるお市の方を正室としていた浅井長政が織田家を裏切り、朝倉家側に付いたエピソードは有名です。
織田信長に敗れ、朝倉家最後の当主となってしまいますが、義景の子孫はどうなったのでしょうか。
家系図と一緒に見ていきましょう。
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朝倉義景の家系図
朝倉義景の家系図です。
本文に登場する人物は太字になっています。
義景の子孫はどうなった?
華麗なる家系図
朝倉家の家系図をさかのぼっていくと、日下部氏にたどり着きます。
日下部氏は、開化天皇の子孫とも孝徳天皇の子孫とも言われており、平安時代に大勢の武士を従え、繁栄した名門中の名門です。
日下部宗高が、平安時代の終わり頃に但馬国養父郡朝倉、
現在の兵庫県北部に移り住み、「朝倉姓」を名乗ったことが朝倉氏の始まりとされています。
この但馬朝倉氏から分かれて、越前に移ったのが越前朝倉氏、
つまり朝倉義景の先祖となります。
越前朝倉氏は、足利氏の一族であり越前国守護を務めていた斯波家に仕えます。
その人物が朝倉広景、越前朝倉氏の初代当主です。
それ以降、代々の当主には「景」の文字が受け継がれています。
朝倉義景の子供
義景は子供に恵まれなかったため、記録に残る限り男子は3人しかいません。
・次男・愛王丸
・三男・信景
です。
長男の阿君丸は、わずか7歳で早世します。
その死には乳母が毒殺され、その毒の影響だとか、同族争いによって殺されたのではないか?
などと言った噂がありますが、確かな証拠を示す資料がないため不明です。
次男の愛王丸は、長男が早世していたため生まれながらに跡継ぎとして期待され、義景からも溺愛されていました。
しかし父・義景が一乗谷城の戦いで、織田信長に敗れ自刃すると織田軍に捕らえられ、殺害されてしまいます。
この時愛王丸は、わずか4歳でした。
三男の信景は、難を逃れ江戸へ逃亡し、本願寺教如に弟子入りし、後に住職となっています。
しかし、義景の子というのは疑わしいとする意見も多いのが事実です。
信景が義景の子供だったとしても、信景に子供はいないので、どのみち朝倉義景の子孫は断絶。
越前朝倉家は途絶えることになります。
子孫に関する噂
朝倉義景の子孫に関しては、様々な噂話があります。
そのいくつかをご紹介します。
という話が日本海側の各地に残っています。
姉が上杉家の家臣に嫁いでいたため、そんな噂が立ったのでしょうが真相は不明です。
義景の叔父である秀景の孫であるという、朝倉政元は、豊臣、徳川と仕え旗本として存続したと言われています。
しかしそれは越前朝倉氏ではなく、別の朝倉の系統ではないかとも言われています。
縁戚であることは間違いないのでしょうが、
朝倉義景の子孫と言えるか、と言われれば「疑わしい」と言えるでしょう。
きょうのまとめ
家系図をたどると、天皇を祖に持つ朝倉家。
そんな名門の家が、義景の代で一気に衰退し滅びの道を進んでしまいます。
生存説などが語り継がれるのも、義景親子に対する同情が深かったのかもしれません。
生きていて欲しい、当時の人たちはそう思ったんですね。
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