柳沢吉保は第五代将軍徳川綱吉の側用人として彼の右腕となり、幕政を担っていました。
将軍と吉保との関係は緊密でしたが、
第六代将軍家宣の時代になると状況は変わります。
その時の吉保の身の振り方はとても賢かったと言えるでしょう。
タップでお好きな項目へ:目次
柳沢吉保の家系図
まずは、柳沢吉保の家系図をみていきましょう。
吉保の家系
柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔だということです。
武田氏が滅亡後、多くの元武田家臣が徳川家康の家臣団に組み込まれます。
柳沢氏としては、吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官しました。
吉保は万治元年(1658年)12月18日に、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷で誕生しました。
母は安忠の側室・了本院。
吉保は長男ですが、父の晩年の側室との間の息子ということで、柳沢宗家の家督は姉の夫(父・安忠の娘婿)である信花が養嗣子となって継ぎ、その家系は明治まで続いています。
吉保の父、安忠が、館林藩主時代の綱吉に仕え、同藩の勘定頭を勤めました。
吉保は自分の家の家督は継いでおらず、1675年から綱吉の小姓として館林藩士となります。
1680年の綱吉の将軍就任に従い、小納戸という将軍の側近くで雑務をする幕臣になりました。
綱吉亡き後の柳沢吉保と家系
吉保は将軍綱吉の寵愛を受け、大老格にまで上り詰め、権勢を極めます。
しかし綱吉が亡くなり、6代将軍・家宣とその右腕・新井白石が幕政を仕切るようになると状況は激変。
そこで、吉保が取った行動は速やかに隠居生活を送ることでした。
家督は息子の吉里に継承させました。
隠居後には江戸本駒入(東京都文京区)で過ごし、六義園の造営などに時間を費やしたといいます。
無理に権力にしがみつこうともせず、さっさと隠居した吉保は反対勢力からのダメージも少なく、非常に賢い身の引き方だったと言われています。
吉保に続く子孫たち
吉保の息子の四男・経隆は越後国黒川藩(新潟県胎内市)1万石藩主となり、明治維新までこの地を治めます。
最後の藩主である光邦は明治新政府の貴族院議員になっています。
その子である光治氏も貴族院議員として、技術者として昭和の時代まで存命しておられました。
吉保の五男・時睦は、越後国三日市藩(新潟県新発田市)1万石の藩主となり、やはり柳沢氏が明治維新までこの地を治めました。
八代藩主柳沢徳忠は、最後の藩主です。
版籍奉還により、三日市藩知事となりました。その後も子孫は続いていると思われます。
長男の吉里は、大和郡山(奈良県)に移り、大和郡山藩主として勤めました。
彼を初代として現在九代まで続いています。柳沢家が明治維新までこの地を治めています。
最後の藩主である第六代の柳沢保申は廃藩置県後も産業を盛んにするために金魚の研究や教育への投資をしました。
柳沢保徳氏が現在の当主(九代目)で、益財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会副理事長、学校法人帝塚山学園学園長をされています。
おわりに
一度幕府での側用人として一大権力を持っていた柳沢吉保。
しかし、このころの幕府における地位や職務も「終身雇用」というわけにはいきませんでした。
そしてそのことをちゃんと理解していたのか、吉保はあっさり隠居をしています。
そのことがかえって彼の家系を次代の勢力から守ることになり、
現代にまで子孫が続いたわけですから、彼の引き際は上手かったと言えるでしょう。
その他の人物はこちら
江戸時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【江戸時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
コメントを残す