柳沢吉保はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

柳沢吉保やなぎさわよしやすは江戸時代に、

気分屋で濃い持ち味の第5代将軍徳川綱吉に寵愛されたテクノクラート(高級官僚)です。

一体、あの綱吉のご機嫌を損ねずに職務を全うした柳沢吉保とは

どんな人物だったのでしょうか?

 

柳沢吉保はどんな人?

プロフィール

絹本著色柳沢吉保像(部分、一蓮寺蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸市ヶ谷(現東京都新宿区)
  • 生年月日:1658年12月18日
  • 死亡年月日:1714年11月2日(享年57歳)
  • 第5代将軍徳川綱吉の最大の理解者であり、彼に寵愛され出世した側用人そばようにん

 

柳沢吉保 年表

年表

西暦(年齢)

1658年(1歳)江戸市ヶ谷にて誕生

1675年(18歳)家督相続、保明やすあきと改名

1680年(23歳)徳川綱吉が5代将軍になるに伴い、幕臣となり小納戸役に任ぜられる

1688年(31歳)将軍綱吉の側用人に就任。禄高は1万2000石の大名となる

1690年(33歳)老中格となる

1701年(44歳)主君・綱吉より諱の一字を与えられ吉保と名乗る

1704年(47歳)甲府藩(現山梨県甲府市)15万石の大名となる

1706年(49歳)大老格となる

1709年(52歳)徳川綱吉薨去の後、幕府の役職を辞め、隠居して家督を吉里に譲る

1714年(57歳)六義園にて死没

 

5代将軍綱吉と共にあった柳沢吉保の生涯

1658年、柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として誕生。

吉保は何度も改名していますが、ここでは吉保で統一しておきます。

吉保は長男でしたが、父親の晩年になってできた庶子(側室の子供)だったため、柳沢家の家督は彼の姉の夫、柳沢信花が継ぎました。

最初は館林藩主の徳川綱吉に小姓として仕えます。

1680年に徳川四代将軍家綱の後継として弟の綱吉が将軍になると、吉保も一緒に幕臣となり、小納戸役に任ぜられました。

綱吉の寵愛を受けた吉保は、そこから出世街道を駆け上がります。

1688年に、将軍親政のために新設された「側用人」に就任し、1万2000石の大名になりました。

1690年には老中格になり、1704年に将軍綱吉の後継として、甲府藩主の徳川家宣いえのぶが決まると、柳沢吉保が家宣の後任として甲府藩(現在の山梨県甲府市)15万石の藩主となったのです。

江戸防衛の要として天領(幕府直轄領地)か徳川一門の所領とされていた甲府を与えられたということは、綱吉が吉保を徳川一門同然に信用し、寵愛していたことの証拠でした。

吉保も綱吉の好意に応えます。

朝廷に対する影響力や発言力があった吉保は、うまく根回しして1702年、朝廷から徳川綱吉の母・桂昌院に従一位という、生前の者に与えられる最高官位を得ることに成功。

綱吉は大喜びです。

ついに1706年、吉保は大老格の職に就きました。

 

しかし、1709年に綱吉が薨去こうきょ(死没)すると、新将軍の家宣は綱吉時代の重臣たちを遠ざけます。

立場の危険を察知した吉保は、家督を長男の吉里に譲り、自らさっさと幕府の役職を辞め、隠居

この吉保の好判断のおかげで表立って将軍家宣周辺の近臣と対立することなく、息子の吉里が継いだ柳沢家には15万石が残されました。

1714年、柳沢吉保は六義園りくぎえんにて死没。

享年57。

 

柳沢吉保が大出世したヒミツ

500石から15万石に大出世した柳沢吉保。

間違いなく吉保の出世は、綱吉の寵愛によるもの。

彼は人間的に、また職業人としてどんな人物だったのでしょうか。

超真面目な男

綱吉から受けた寵愛の理由について

>柳沢吉保は非常に誠実な人柄で、出世の理由は、感情の起伏の激しい綱吉に忠実に勤めたから

という内容を伝える記録が複数あります。

ズルくも強欲でもなく、かといえば世の中を自分の政治手腕で動かすほどの才能もなく、ただ愚直なほど誠実に、気まぐれな将軍綱吉に従順だったことが長く仕えた理由の一つです。

領民に慕われた藩主

彼は綱吉のイエスマンをただ演じていただけではないのです。

側用人としての激務のかたわら、武蔵国川越藩主時代には三富新田さんとめしんでん開発などに手腕を発揮。

実は吉保は、甲斐国に移封後には自ら領地を訪れたことはありません。

しかし、甲府に配した家老に指示をして

・甲府城・城下町の整

・検地

・用水路野整備

・甲州金と呼ばれた貨幣の鋳造

・実質的な減税

など、誠実な藩政は領民に評判がよかったといいます。

高い文化的素養

吉保は和歌に造詣が深く、数々の詩歌を残しています。

東京本駒込にある六義園りくぎえんは吉保の下屋敷であった場所で、大名庭園では天下一とも言われる国の特別名勝です。

これは吉保が六義むくさと呼ばれる和歌の六つの基調を表わす庭園として再現しようと自ら設計したもの。

風雅を解する人物でした。

また、儒学に傾倒していた綱吉の文治政治に恭順するため、荻生徂徠おぎゅうそらい細井広沢ほそいこうたくなどの多くの儒者を召し抱え、儒学の発展に寄与しました。

綱吉のわがままを許容

そして吉保と綱吉との私的な絆もありました。

男色(男の同性愛)関係があったと言われます。

将軍綱吉には、いつも沢山の男女の愛人がおり、そのうち美男の小姓たちを取り揃えて管理したのも、吉保だったそうです。

泰平の世の中で出世をするのは金と女を使うに限る

とのダークな名言を残したともされる吉保ですが、男も使ったんでしょうか・・・。

また、俗説ですが、吉保の側室の染子はかつて綱吉の愛妾で、綱吉から下された拝領妻だったとか。

吉保の息子・吉里は綱吉の隠し子だとまで言われています。

これらのハナシが本当なら、そういった綱吉の気まぐれやわがままを黙って受け止めてやれるその吉保の一種不思議なタフさは、彼の出世に大いに貢献したということですね。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

柳沢吉保とは、簡単にまとめると

① 5代将軍綱吉に誠心誠意尽くした側近

② 激務の幕政をこなし、領民にも慕われたやり手

③ 主君綱吉のわがままを受け入れてやれる寛容でタフな部下

④ 詩歌や庭づくりを好む趣味人

と言えるのではないでしょうか。

その他にも柳沢吉保にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku