乃木希典が殉死した理由は西南戦争?それとも日露戦争が原因だったのか

 

大正元年(1912)9月13日、陸軍大将・乃木希典のぎまれすけが自刃しました。

この日は明治天皇が大喪たいそうの礼が行われた日。

日本武家社会において、殉死は中世から近世に行われていたものの、江戸幕府によって禁止されました。

というわけで、時代錯誤ともとれる乃木希典の殉死

なぜ彼は明治天皇の後を追わなければならなかったのか、その考えられている理由についてご紹介します。

 

明治天皇「大喪の礼」の日の夜

乃木希典

出典:Wikipedia

大正元年9月13日午後8時。

明治天皇の御遺体を乗せた車が宮城(=皇居)を出発。

その合図の号砲が放たれました。

赤坂にある自宅で、その音を聞いたであろう乃木希典。

軍服を着ていたという乃木は、古式にのっとって切腹しました。

このとき、妻の静子も乃木と一緒に自刃しています。

二人の衝撃的な死は日本国内のみならず、世界にも報じられたといいます。

 

乃木希典はなぜ殉死したのか?

乃木希典の殉死の理由は何だったのか。

当時から多くの解釈がなされたそうですが、考えられている理由を二つほどご紹介します。

西南戦争で軍旗を奪われたから?

政府軍として西南戦争に参戦した乃木希典は、第14連隊を率いていました。

第14連隊は熊本県植木町付近で薩摩軍と激突。

不利な兵力ながらよく応戦していた乃木の連隊ですが、戦略上一時撤退することに。

その際、連隊旗を持っていた河原林少尉が討たれ、薩摩軍に旗を奪われるという事件が起こりました。

連隊旗とは「官軍」であることを示す非常に大切なもの。

これを敵に奪われるということは、普通ならあってはなりません。

事件を重く受け止めた乃木は、総指揮官であった山県有朋に自ら処分を求めました。

それに対して山県有朋は、連隊旗を奪われたのは乃木の責任ではないとして処分せず。

対応に納得がいかなかったのか、乃木希典はその後、何度か自殺を図っています。

乃木本人にとっては、よほど恥ずかしいことだったのでしょう。

同じく陸軍だった児玉源太郎こだまげんたろうが自殺を図ろうとしている乃木を見つけ、

諭したこともあったと言われています。

乃木希典が残した遺書には、この件が死ぬ理由であると書いてありました。

日露戦争の自責の念?

本人が書いた遺書の内容とは別に、乃木希典が殉死した理由はこちらではないかとも考えられているようです。

乃木希典は日露戦争のとき、ロシアの旅順要塞を陥落させています。

旅順要塞は、ロシア側が3年かかっても落とせないと考えていたそうです。

しかし日本の陸軍は乃木の指揮により、わずか半年という短期間で旅順を攻略してしまったのです。

世界を驚かせたこの戦いですが、死傷者はなんと5万人。

その中には乃木の息子も含まれていました。

帰国した乃木は明治天皇に、多大な犠牲を出してしまったことに対する罪をつぐないたい旨を伝えたといいます。

乃木希典は多くの若者の命を犠牲にしてしまったことに対する、自責の念にかられていたようです。

しかしそんな乃木に対して明治天皇は、今は死ぬべき時ではないので、

「どうしてもというのならちんが世を去った後にしなさい。」

と答えたそうです。

乃木希典の殉死は、明治天皇のこの言葉に従ったのではないかとも言われているのです。

 

きょうのまとめ

今回は乃木希典の殉死についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

① 明治天皇の大喪の礼が行われた夜、乃木希典は妻とともに自刃した

② 乃木希典の遺書によると、西南戦争で軍旗を奪われたことが自刃の理由とされている

③ 遺書の内容とは別に、日露戦争で多くの犠牲を出したことに対する自責の念が理由とも言われている

こちらのサイトでは他にも、乃木希典にまつわる記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね。

 
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2 件のコメント

  • はじめまして、
    乃木希典の生涯に興味があって拝見させていただきました。
    乃木が軍旗を奪われた後の山県の態度について、加藤周一らが著した『日本人の死生観(上)』に、山県が極刑を主張し、第一旅団司令長官の野津鎮雄が擁護をしていた、との記述があります。
    最終的には乃木は罪を問われずに済んだものの、山県が自ら乃木の失態を赦したようにもとれる記述でしたので、気になりました。
    何か山県の乃木に対する姿勢に関しての論拠があれば知りたいです。

  • はじめまして。閲覧、コメント頂きありがとうございます!
    下記の一文になりますよね。
    >それに対して山県有朋は、連隊旗を奪われたのは乃木の責任ではないとして処分せず。

    参考文献の記載がなく、申し訳ありません。
    すぐに論拠(参考文献)の確認が出来ないというのが現在の状況です。
    確認が出来ましたら、コメント欄にてお知らせさせて頂きます。

    コメントありがとうございます。

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