京都観光の有名な場所といえば、足利義満の建てた金閣寺と、
その孫、足利義政の建てた銀閣寺ですね。
義満の建てた金閣寺は金箔が貼られ、彼の権力の強さを誇っています。
しかし義政の建てた銀閣寺は銀箔などは貼られていません。
それなのに、なぜ銀閣寺と呼ぶのでしょうか。
足利義政という人と銀閣寺について少し調べてみましょう。
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室町幕府第8代将軍
足利義政は、7代目将軍の兄・義勝が早世したため、1449年に急遽8代目の将軍となりました。
元々三男坊で将軍になるなんて思ってもみなかったのですから、政治には余り興味を示しませんでした。
政治は専ら側近の家臣がやっていたようです。
その側近の斯波氏と畠山氏の権力争いから、細川勝元と山名宗全の権力争いにまで発展し、
義政の跡目争いまで巻き込んで11年間も続く大きな戦乱、「応仁の乱」を引き起こしてしまいました。
京都は戦乱のため、壊滅状態になり、飢饉が起こりたくさんの人が飢え死にしてしまいます。
それでも義政は優雅に日本庭園を作ったり、酒宴にふけったりしていたと言います。
銀閣寺建立
東山殿の造営
足利義政は1473年に息子の義尚に将軍職を譲り、1482年から東山に東山殿の造営をはじめました。
応仁の乱で京都の経済は疲弊していました。
しかし義政はおかまいなく庶民に税金を負担させ、自分は書画や茶の湯などの風流な生活を楽しんでいました。
この造営は義政の亡くなる直前まで続き、1490年に義政が死去すると東山殿を寺に変え、慈照寺としました。
慈照寺観音殿(銀閣寺)
観音殿は木造2階建てで、屋根は宝形造でそのトップには銅製の鳳凰が置かれています。
足利義満の建てた金閣寺はその名の通り金箔が貼られていましたが、この銀閣寺には銀箔を貼った形跡もなく、黒漆塗のとても趣のあるたたずまいをしています。
この観音殿が銀閣寺と呼ばれたのは江戸時代になってからで、人々が金閣寺に対し、銀閣寺と呼んだものと言われています。
義政は栄華を極めた義満にあやかり、自分も同じような文化的なものを残そうと慈照寺を建てたのです。
きょうのまとめ
足利義政は政治には興味を持たない将軍様でしたが、
文化的なことにはすごく力を入れていたようです。
銀閣寺も「わびさび」を生かした東山文化の象徴だったのです。
ちなみに、あの一休さんがいたのは義政の時代で、
義満とは全く関係なかったようです。
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